わたしもあなたを罪に定めない ~ひかりごけ事件~

 律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。



 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」



 ヨハネによる福音書 8章3~11節



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 若い方はあまりご存知ないかもしれないが、その昔 『ひかりごけ事件』というのがあった。



 1944年5月に、現在の北海道目梨郡羅臼町で発覚した死体損壊事件のこと。

 日本陸軍の徴用船が難破し、真冬の知床岬に食料もない極限状態に置かれた船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延びたという事件である。

 食人が公に明らかになった事件は歴史上たびたびみられるが、この事件はそれにより刑を科せられた初めての事件とされている。一般には「唯一裁判で裁かれた食人事件」といわれるが、日本の刑法には食人に関する規定がないため、釧路地裁にて死体損壊事件として処理された。

(wikipedia)



 この題材は小説化もされ、三國連太郎主演で映画化もされた。是非見てほしい。

 映画の中で、船員を食べたとされる船長が法廷で裁かれる場面。

 船長は、こう言い放った。

「私は死刑になって当然だと思いますが、ただ人肉を食べたことのないあなた方に裁かれたくありません。あなたは人の肉を食べたことはありますか? 逆に人に食べられたことがありますか?」

 これが言い逃れに聴こえた検事は 「お前は裁判の権威を軽んじるつもりか」 となじる。船長の精神世界では、罪を犯した自分がヒカリゴケのように光っているように見えていた。

 それは、否定できない罪の証しのようなものだった。

「私の後ろでヒカリゴケが光っているのが見えるでしょう? 人の肉を食べるとそうなるんです。どうか私を良く見てください」

 船長はそう言うが、法廷にいる誰にもそんなものは見えない。

 しかし、船長が目を凝らしてよく見ると、そこには驚くべき光景があった。

 自分を裁く裁判官や検事、傍聴席にいる沢山の人々の後ろにも、「ひかりごけ」 が光っていた。

「私だけじゃないじゃないか! ホラ、アンタにも。そこのアンタにも——」



 冒頭に紹介した聖書の物語は、ひかりごけのお話と重なる部分がある。

 いや、切り口を変えただけで全く同じことを言っている話である。

 船長の、「人肉を食べたことのないあなた方に裁かれたくありません」と、イエスの 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」 は、セットで考えるとその意味がよく理解できる。

 きっと船長は、このイエスになら「裁かれてもいい」と思ったのではないか、と想像する。

 船長は、文字通り「人肉を食べた経験のない者は裁くな」と言いたかったのではないと思う。そんなこと、無理な注文だったからだ。そこに多少は、人肉を食べた経験などなくとも、そうせざるを得なかった過酷な状況を「思いやり、斟酌する」空気が少しでも感じられたら、船長も裁きを受け入れやすかったかもしれない。

 しかし、そこにあったのは「人肉を食べた狂気の異常者」という偏見と興味本位の眼差しだけだった。罪を犯していない、セーフな側の人間のこういう無神経が、より過ちを犯した人生シナリオ の人間を苦しめる。



 船長が、裁判官や傍聴席の一般人にも自分と同じひかりごけの発光を見た、というのは——

 刑法で裁かれるような罪を犯した者とそうでない者、という大味なくくりの差などは関係なく、誰もかれもが「似たようなもの」であるということを指している。

 ただ、そのことに自覚的か自覚的でないか、に差が出るだけのもの。

 イエス・キリストは宗教上の脚色のせいで、「正体は絶対の神 であり、まったき愛の体現者」とされてしまっているが、そんなことはない。彼も、普通の人間と変わりない。

 ただ彼には、「ひかりごけ」が理解できた。自ら積極的に罪を犯しはしないが、でも他者が犯したことにはただの同情ではない域で寄り添える内的深さをもっていた。

 


 船長の理屈でいくと、たとえば殺人罪を犯した者の本当の気持ちなど、やはり殺人を経験した者にしか分からないのだから、殺人者でなおかつ更生した者を裁判官に当てろというのは無理がある。

 殺人者の気持ちを理解するために殺人を経験してみる。痴漢魔の心理を知って裁くために、自らも痴漢を実践してみる。そんなバカなことはあってはならない。

 


●その罪を実地に体験しておらずとも——

 何らかの形で、人の弱さが優しさや「生きたい」という強い本能から来るものであるという事実を深く理解し、共感(同情でも甘やかしでもない)できる者



 この者なら、たとえ食人の経験などなくとも人を裁くことをゆるされると思う。

 願わくば、スピリチュアルという世界において指導者と呼ばれる人たちが、その器であってくれと願う。

 でも、怖いことに、こういう宗教やスピリチュアルで、多数の人から支持されている人物ほど——



●自分は精神的に上等な人間で、ニュースで聞くような罪を犯すことなどあり得ない。自分は悟ったので、この先バカをして無明に陥ることなんかないわい——と思っていたりする。



 顕在意識では考えないだろうが、無意識下でそう思っていることが多い。

 精神指導者は、必ずこの試練を通る。指導者として成功するかしないかにはさして関係ないところが、少々やっかいでもある。世の分からんちんと自分は違う次元にいる、として上から目線でものを言うか、それともイエスのように「自分も彼らと本質的にはそう変わらない」 ことをわきまえて同じ目線で接することができるか、の分かれ道に指導者の誰もが立つ。

(たとえ前者でも、世の中の状態や集団意識の方向性によっては、もてはやされ時代の寵児になるという皮肉は起きる。その場合、人は指導者の「上から目線」を見抜けないことがある)



 何度も言う。

 あなたが悟ったかどうかなんて知らないが、ひとつ確実なことがある。

 あなたが『人間』であること。

 人間である以上、あなたにも「ひかりごけ」が光っていること。

 宗教やスピリチュアルを熱心にすることで 「自分は皆と違ってひかりごけが消えた」と勘違いしている、一部スピリチュアル・セレブや指導者がいる。彼らは、自分にもまだそれがあるのに、「私はそれがもうないから、ない私があなたを導いてあげましょう」 とやる場合がある。

 そういう宗教やスピリチュアルに引っかからないことをおすすめする。

 世に本当に必要なのは、カリスマ性があり、強烈な個性とユーモアセンスで人心を掌握するような人物ではなく、自他共の「ひかりごけ」を認めてそれでも協力し合ってできるだけ幸せに生きていこうとする者である。

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