光あるうちに ~平等という原則を守るために、愛を制限しますか?~
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。
だれも働くことのできない夜が来る。
わたしは、世にいる間、世の光である。
ヨハネによる福音書 9章4~5節
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この世は、『平等』というものにこだわる。
それが実行されるために、あえて「冷たい」行為を取る。
例えば、大手百貨店の開店時間前——
開店を待って並んでいたある女性が、急にお手洗いに行きたくなった。
そこで、入り口を守る守衛さんに声をかけ、中のトイレをかしてくれないかと尋ねた。すると、「規則ですから」と断られた、という。
開店前は、何があっても客を中に入れてはいけない。
例外を作ると、ややこしいことになる——。
そのマニュアル通りの対応をしたまでのことである。
これは実話である。
もちろん、守衛さんのお人柄にもよるだろう。融通の利く人かどうか。
この場合はちょっと頭が固すぎる、とは思うが、このような例は日常無数にある。
●一人に、あることをしてあげたら——
皆にしてあげなければならなくなる。
そうなったら、収拾がつかない。
このような恐れが、この社会を生きる人々の中に巣食っている。
問題や面倒が起こることを避けたい。
そのためには、頭を使ってよく考えねばならない。
今回の守衛さんの場合も、一人に認めてそのうわさが広がって、「開店前でもお手洗いは借りれる」というラインまで認識をゆるしてしまうことになる。何かあった時に「この前、あの守衛さんがいいと言った」と言われたら、たまったもんじゃない。
ここは手堅く、手堅く……
そんな発想が、多少冷たいと思える行動を人に選択される。
だが、二千年前の覚者、イエスはどうだったか。
彼は神であった(私たちも!)が、体をひとつしか持たなかった。
その生涯のうちに、奇跡と呼ばれる行為を沢山行った。
それは裏を返せば、イエスに出会えなかった人々は病気を治してもらえなかった、ということである。
例えば、イエスの行く先々で「病気を治してください」と願う人が行列を成して、キリがない状況もあっただろう。イエスとて肉体を持つ身。宿命として限界という衣をまとっているので、一日の内に見てあげられる人数にも限りがあっただろう。
「今日はここまで」と列を切られてしまったら、せっかく待っていてももう見てもらえない。
「え~なんで!?」
人のエゴは、そもそもイエスがその人を癒す義務などないことを忘れさせる。
相手は厚意でやってくれているのに、それがいつの間にか当たり前の要求に化け、思い通りにいかなかったら腹を立てるのだ。
それはまぁさて置き、イエスは恐れなかった。
『平等』という偽りの良識に負けなかった。
いくら、癒してあげられない人も出るという限界があろうとも、彼は全力でしたいと思うことをした。不平等が生じ、この世の誰かさんを不機嫌にさせることがあるとしても、ひるまなかった。
その覚悟の表れが、冒頭のイエスの言葉である。
●生きているうちこそ、この地球ゲームで何かを起こせるのだ。
死んでしまったら、もうそのゲームはできない。どんなに悔いが残っても。
だから、今やれることを精一杯するのだ。
筆者が全力で活動することで、当然周囲の全員をいわゆる「幸せ」にすることはできない。機嫌を悪くさせたり、怒らせる人もでてくるだろう。
平等というものを常にキープできず、色々なドラマも生むだろう。
でも、いいのである。
偽りの平等は、思考で生みだそうとするもの。
本当の平等は、ただそれぞれがやりたいようにやることによって——
その中で、気が付いたら自然にいわゆる「平等」になっている。
こうやって達成されるものなのだ。
それが分かっていたイエスは、平等をコントロールなどせず、ただ魂の望むままにした。それが結局、宇宙のバランスを一番取る行為になると分かっていたのだ。
「恐れ」という成分を含んだ偽りの平等の正体を見抜こう。
そして、思いっきりしたいことを、そして人生を楽しもう。
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