イエスはド田舎もんだからメシアなわけない、という偏見 ~批判は相手の言い分をちゃんと理解してから~

 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」 と言った。

 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。

 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」



 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。

「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」

 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」



 ヨハネによる福音書 7章45~52節



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 一応、このお話の前後関係を説明せねばなるまい。



 イエス・キリストが、現政権や宗教トップを毒舌たっぷりの皮肉った演説をしたのであるが、それを快く思わない権力者たちが、部下(ここでは『下役』と書かれている)を派遣して、いらんことを言うようだったらイエスをしょっぴいてこい、と言い渡してあった。下役は今でいう駐在さんのようなもので、逮捕代行権があった。

 でも、本文からも分かる通り、下役はイエスの話に納得してしまった。演説に感動してしまったので、「今まで、あの人のように話した人はいません」 と言わしめた。フツーに、逮捕がふさわしい人には見えなかったのである。



 祭司長やファリサイ派の人々、というのは当時で言う「正しい人たち」である。

 現代風に言うと、有識者(知識人)だろうか。当時のその国での絶対は、ユダヤ教。その教義に当たるのが、律法と言われる、神が伝えたとされる「決まり事辞典」である。

 律法はたいへん長文で、イライラするほど内容が細かい。

 中には解釈が難解なものもあり、庶民ではとうてい歯が立たないので、「律法学者」と言われる、その内容が分かってちゃんと伝えられる人、がその世界では重宝された。ファリサイ派というのは、今の政治で言うと自民党みたいなものだと考えればよろしい。

 ただ、時代の変わり目と言うのは難しい時期でして。

 当時 「正しい」とされた律法学者の言うことは、もうその役目を終え、時代遅れになろうとしていた。新しい教えが主流となり、ワンステージ上がった精神文明になる過渡期にあった。



 イエスの言うことは、新しい時代を担うべく出現した考え方であったが——

 まだ、古い「正しさ」が根強く残っていたこともあり、かえってこちらのほうが世の中から攻撃された。当時の「絶対」からすると、イエスの言葉は噴飯もののとんでもない暴言だった。

 ファリサイ派は、こう言っている。「お前たちまで惑わされたのか。」

 惑わされる、という言葉が出てくるのは、自分たちが依って立つ教えや考え方が[「絶対」だからである。そこからズラされる、考え方を変えられるのが「惑わされる」だ。

 今の時代だから言えるが、惑わされているのはファリサイ派であり、時代が求めているのはイエスである。でも、この「勇気の試練」はいつの時代にも酷である。見た目、大変「損な選択」であるように表面上は見えるから。誰も、その選択をしたがらない。



 また、ファリサイ派はこうも言う。

「律法を知らないこの群衆は、呪われている」。

 これは、現代である宗教やスピリチュアルにハマっている人の言葉に置き換えることができる。

『この教えの価値を知らない人(関心がない人)は、可哀想』。

 可哀想、の次は「早く広めなきゃ」である。

 広めようとすることそれ自体は、問題ではない。決して悪いことではない。

 ただ、「それしか世界を(この人を)救えないのだ」 という必死さや深刻さが混入すると、厄介だ。広めるのは、あくまで自分が感動するついでであって、決して第一目的であってはならない。

 イエスが言ったとされる「私の言葉を世界に広めよ」という大宣教命令は、イエス本人が言ったのではない可能性が大である。

 教会側の、作り話。自分たちに都合がいいように。

 覚醒したマスターが、全世界に私の教えを広めよ、なんて言わない。



 幼い者の誤解や曲解を恐れたからこそ、イエスは自身が書いたものを残さなかったはずだ。 自分不在で言葉が伝言ゲームのように伝えられ、変わっていく様を見たらイエスは我慢ならないはずだ。それをバカ弟子たちに「伝えろ」とは、どう考えてもイエスの考えに合わない。



 そこへ、ニコデモという人物が登場する。

 彼はどちらかというとイエスに理解を示している、数少ない有力者。

 彼が、至極当たり前のことを言って、仲間をたしなめた。

「噂やまた聞きではなく、直接本人を前にしてちゃんと事情を聴いて、公正な立場で判断したのでなければ、人を悪く言ってはいけない」。そんな趣旨のことを言った。

 これは律法によるとどう、とかではなく、おそらく万国共通で大事なことのはずだ。でも、自分の利害にとって目障りな存在、相手憎しな存在に対しては普段頭のいい人でさえ我を失う。我を失ったのでないと、「ガリラヤ(もっさいド田舎)から良いもの(伝説的アイドル)なんか生まれるものか」なんていう、程度の低い偏見に囚われるなんてあり得ない。

 イエスの言っていることが具体的にどうこう、と言えないもんだから、彼の出身地をバカにする程度の低い攻撃で、イエスを貶めた気になっている。



 先日私は『地球の総人口は一人』というタイトルのスピリチュアルなメッセージをを書いた。

 73億人の人類が地球にいると言われていますが、実際はたったひとりしかいません、という趣旨の話だった。私はこのメッセージをネットで発表する前日、こんなお話をします、という簡潔な予告をツイッターでしたところ、こんなコメントが寄せられた。



●少なくとも73億個あって、それぞれの宇宙の寿命はたった7~80年くらいしか無いのですよね。



 文章がたったこれだけなので、どういう意図を込めてこれを私に送ったか、不明である。

 でも、少なくとも「宇宙にはたったひとりしかいない」という宇宙観に疑問を呈している、ということは分かる。多分この方は、自身の体験からそれを本当に実感したわけではないと推察する。恐らく、スピにハマって聞きかじった「一人ひとりが宇宙そのものであり、神」「人の数だけ宇宙がある」という、一般的に支持されている悟り系の知識が頭に入っていると思われる。

 だから、一言余計なことを言ってやりたくなった。

 聞いたこと(そして私が真理だと思うこと)と違うじゃんか! と。



 この書でも一貫して述べてきたことだが、「決まった真理などなく、TPOに合わせて何とでも言えてしまう。絶対な言葉などない」。

 私が言いたかったのは「地球の人口は一人、が絶対真理ではなく、そう考えると納得できるような気がしませんか?」というひとつ の「視点の提供」なのである。

 正しいも間違いもないから、あなたが好きなら耳を傾ければいいし、イヤなら無視すればいい。

 ニコデモは、「まず本人の言い分をよく聞いた上でなければ……」 と言っているではないか。しかも上記のコメントを寄せた誰かは、私の記事そのものを読んだのではなく、二行程度のツイッターの「予告編」を読んだだけである。この方は、スピリチュアルどころか情報への接し方の基本もできていない。



 祭司長やファリサイ派は、相手の細かい言い分などどうでもよかった。

 とにかく、「自分たちにはむかっている、言っていることが違う」というその事実だけでよかった。

 これは、理性的議論というよりむしろ「反応」である。

 反応、というのは議論よりはるかに低レベルである。

 反応するだけで、それを「外に出すクオリティなし」と判断できて外に出さないなら、それはそれでなかなか「できた」人物であると言える。

 それを思わず外(オフィシャルな場)に出してしまう、というのは、「恥を知らない」としか思えない。



「異議あり!」



 ある法廷物のゲームで有名な名セリフである。

 法廷という、公正な場で相手に「異議あり」と言うためには——

 誰にでも納得できる「明確な証拠と論拠」がないと、誰も耳を傾けない。

 自分が正しいと思いたいだけなら、誰でも何とでも言える。

 一般的に受け入れられている理屈や、偉い人の名言も引用できる。

 先ほどの紹介したコメントは、ただスピリチュアル界でよく言われる「宇宙は人の数だけある」を借り物競争のように持ってきただけで、あとは丸投げである。なんら、その人自身の言葉も思いも伝わってこない。



 ガリラヤから良いものは出ない——

 東大出以上の狭き門であった、本当のエリートだけがなれた律法学者。

 その人物をして、偏見に囚われたらこの程度の悪口がせいぜいのクレーマーに成り下がらせる、「自分が信じてることと違うことを言われた時に出る、幼い反応」。

 本当に怖いのは、それである。

 自分の意見と違う内容を目にした時に、ろくに相手のブログなり出版物なりを精査せずに、見たそのものだけに反応して一般論との比較で違いを指摘するのは、ただやぼったい。

 メッセージ本体をきちっと読めば、なぜ私が「地球の総人口は一人」と表現したのか、その意図を汲める。

 それを読みもしないバカが、フライングで「人の数だけ宇宙がある」などという、流れを読まないキテレツなコメントを出す。仮にこの人物に悪気はなく、「ただそういう見方もあると言いたかった」だけだとしても、コメントの質としてはセンスなさすぎである。

 せめて、人の書くことにコメントするなら、予告文だけ読んで我慢しきれず言うんじゃなく、ちゃんと記事読んでからにしようね。

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