イエス、母ちゃんと言い争う ~カナの婚礼の舞台裏~

【カナでの婚礼】


 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」 と言った。

 イエスは母に言われた。

「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 しかし、母は召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。

 いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。

 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちはかめの縁まで水を満たした。

 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。

 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで言った。

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

 イエスは、この最初のしるし(奇跡)をガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。



 ヨハネによる福音書 2章1~11節



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 今日も、視点を180度転換して読むことの面白さを味わっていただきたい。

 まずは、このお話のキリスト教的な一般理解から紹介しよう。



 この文章を読む上で、ある「感覚」を持たないと、緊張感がなくなる。

 多分皆さんは、こう思うだろう。

「ブドウ酒切れたんなら、買い足せばいいじゃん。近所から分けてもらえばいいじゃん」

 問題は、そう簡単ではない。

 日本人は、小説の中で「靴を脱いで家に上がった」という文章を読んでも、何も感じない。文化として、当たり前だからだ。

 でも、遠い異文化の国の人が、現地の言葉に訳された日本の小説を読んで——

「靴を脱いで家に上がる、ってどういうことだ?」 となる。そういう文化的常識がないからだ。それと同じことが、ここで起こる。



●実は、婚礼の席でお酒を切らす、というのは、招いた客に対してもっとも失礼な行為に当たる。

 史上最大の恥、に当たる。 

 せっかくのめでたい席が台無しになるだけでなく、主催者・両家の面目も丸つぶれである。



 そういう常識がこの時代のこの地方にあることを知らなければ、物語の深刻さは分からない。

 つまり、イエスの母マリアの、「ブドウ酒がなくなりました。」というセリフは「オーマイガァァァッツ! ブドウ酒が切れちゃった! えらいこっちゃあああ!」と、言葉は上品ではないがそう訳してもいいのである。

 母マリアは、おそらくこの婚礼の主催者に名を連ねていたものと思われる。

 つまりは、イエスの母・人生最大のピンチだったわけである。



 イエスの母マリアは、イエスに助けを求めた。

 なぜ、買い足さなかったか。

 買い足す、ということは、他人に「婚礼の席でブドウ酒が切れた」と悟られるリスクを負うことになる。相手が口の堅い人物なら良いが、漏らされたら一巻の終わり。例え酒を分けてくれた本人が黙っていてくれても、他の者が感付かないとも限らない。

 他人と交渉して何とかしたら、自分の失敗がばれる恐怖があった。(今でこそ聖母マリア、とあがめられている人ですが、実際には人間味たっぷりですね)

 だからこそ、奇跡を起こせるイエスに、すがったのである。

 それに対しイエスは——

「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 そういう、ちょっと理解に苦しむ言葉を残している。

 お母さんに対して婦人よ、とはまぁ何と他人行儀な。

 この部分に関してはキリスト教会側も都合が悪いのか、何とかイエスがマリアを尊敬しているし、深い愛情を持っているということにしておきたいようで、様々な強引な解釈方法があるようだ。



 まぁ、それはいいとして、話を進めよう。

 とにもかくにも、イエスは母の頼みを聞き、見事ただの水をブドウ酒に変えた。

「水がブドウ酒に変わる」 。これを象徴的にとらえて(ブドウ酒を血と置き換えて)——



●命無きところに、命を与えることのできるイエス



 まさに神の御子。ありがたいことだ、という宗教的理解がある。

 そして、もうひとつ。

 イエスが奇跡でつくったブドウ酒を、そうと知らない「世話役」と呼ばれる人物が味見する。あまりの美味しさに、「すごい!」となる。

 イエスは、母のピンチを救っただけでなく、この婚礼があとあとまでもよいブドウ酒を取っておく「良心的かつホスピタリティに満ちた」婚礼だという評価までおまけで得て、大いに面目をほどこしたのである。

 イエスは、母を救っただけでなく、さらに周囲から賞賛を浴びる結果にまでなった。このことから、キリスト教は——



●イエス・キリストを受け入れ、おすがりすることによって、ただあなたが人生のピンチから救われるだけではなく、もっと素晴らしいことすらも起こって、その栄光が現わされるのです!



 ……というふうに話をもっていく。

(もちろん、数多ある教派の中には現世御利益的な話を嫌うカタいところもあるため、クリスチャンが全員そう考える。ということではない)

 この辺り、実にうまい。で、信者も改めてイエス様のすごさを認識し、「ハレルヤ!」となり、信仰が強まる。



 では、ここから筆者による『身もフタもない解釈編』に移る。

 まず、この前提がないと、このお話は読み解けない。



●母マリアとイエスは、仲が悪かった。



 詳しく述べると長くなりすぎるため、簡単にヒントだけ言うと、本書の最初で述べた「イエス私生児の可能性」「自分に関係なく赤ちゃんができちゃった、婚約者ヨセフの内心の憤り」「マリアのうしろめたさ(誰かと婚前交渉しちゃったんだから)」、そんな自分の家庭を好きになれず、本来親の職業を継ぐのが当然だった時代に家出してとんでもない運動を始めたイエス……まぁ、そういうヒントだけ書いておけば、イエスの家庭が仮面夫婦ならぬ「仮面家庭」だったことも、想像できると思う。

 キリスト教では、イエスは「神の子」(自分は罪人)なので、イエスは絶対マリアと深い真実の愛で結ばれている、と信じて疑わない。絶対に、そういう前提でしかものを考えない。

 でも、イエスは覚醒者とはいえ、肉体をまとった人間だったのだ。完全であるわけがない。

 まさか覚醒者だったら、全員家族とうまくいってるとあなたは思ったりしてますか? とんでもない。



 見たんかー!

 調べたんかー!



 とにかく、この物語の背景には、「イエスと母の不仲」があったのだ。

 で、次に進もう。

 イエスとその弟子たちは、集団ホームレス状態だった。

 決まった住居も持たない。毎日、旅から旅へのその日暮らし。

 民衆に神様のお話を説教して、いくばくかのお礼を受け取る。

 貧しい人、庶民が伝道の対象だったので、収入も少なかっただろう。

 イエスの集団には、働き盛りの成人男性が多かったと思われるので、食費は常にカツカツ。言わば、いつもお腹をすかせた「飢えた狼」状態だった。

 イエス自身についても、聖書の中でこう書かれてある。



●人の子(イエス)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。


【マタイによる福音書 11章19節】



 イエス自身が言っている。自分は大食いの大酒飲みだ、と言われていると。

 しかも、否定していない。

 それはそうかもしれないけどさ、ちゃんとやることやってるよ、オレ。

 そう言っているわけである。

 つまり、ボスのイエスを筆頭に、皆「メシ」には目がなかったわけだ。

 イエスは「メシア」だからね! (笑)



 イエスの母は、彼らを呼んだらどうなるか想像できたので、不仲だったし、ホンネでは招待したくなかった。なので招待したとしても、多分世間体的なもののためで、しぶしぶだったのかもしれない。

 もしかしたら、マリアは黙っておこうと思ったのに、地獄耳のイエスに母が婚礼の主催者になるという情報が入って——

「オレら招待しろよ! それがスジっちゅうもんちゃうか?」

 そうプレッシャーをかけられたのかもしれない。

 食い物の恨みは恐ろしいのだ。

 マリアは、何度も彼らに言い含めたはずだ。



「お願いだから、大人しくしていてちょうだい。

 目立つことはしないでちょうだい。

 食べる量もほどほどに。節度をわきまえてね!

 ホントに大丈夫なんでしょうね!?」



「わーったわーった。うるせぇな。

 そんなに心配すんな。おとなしくしてるからよ」



 でも、大丈夫なわけがないのは、目に見えていた。

 さぁ、そんな飢えた集団が、婚礼の席になど招かれたら、どうなります?

「う、うめぇ!」

「こんなうまいメシ、何か月……いや何年ぶりだ?」

 もう、ものすごい食べっぷり。

 まるで、大食い選手権。

 どんどん、料理の皿が空になっていく。

 ブドウ酒もガブガブ飲まれるので、みるみる減っていく。

 そこで、予想外のことが起きた。

 イエスの一団の胃袋を甘く見ていたマリアたちは……

 ブドウ酒のストック量を誤った。全然足りなくなったのである。

 イエスたちのせいで、常識的な量を飲んでいる客人たちの分が、なくなったのだ。だから、母マリアの「ブドウ酒がなくなりました」 云々のやり取りは、実際はこうだ。



「この、バカ息子!

 あんたたちのせいで、ブドウ酒がなくなっちゃったじゃないの!

 どうしてくれるのさ!

 ああ、これで私もおしまいよ!

 婚礼でブドウ酒を切らした、って死ぬまで後ろ指指されるんだわ。 

 こうなったからには、あんた責任取ってくれるんでしょうね!?」



「何だよもう、うるせぇな。

 分かった、分かったから!

 飲んだ分、弁償すりゃいいんだろ?

 やってやる、やってやるからこれ以上ピーピー言うな!」



 この後は、皆さんご承知の通りだ。

 見事に、水をブドウ酒に変える奇跡を起こし、マリアとイエス一同は、今以上に自分たちの評判を悪くするピンチから逃れることができた。



 このお話は、私たちをホッとさせてくれる。

 覚醒者だったら、しかも「マスタークラス」だったら、人生何でもかんでもきれいにうまくいっているという思い込みを、外してくれる。

 イエスでさえ、どうにもならないことはあったのだ。親が苦手だった、という。



 聖書では、信じる者の都合を前提に書かれているからきれいな話だが——

 実際には、イエスは当時の常識を破壊するようなことを言っていたから、今で言う胡散臭い 「新興宗教」 のように言われていたのだろう。母マリアもその他の家族も、いろいろ言われたに違いない。

 お願いだから、やめてくれと家族は思っただろう。でもイエスは自分の確信した道に関して、一歩も引かなかった。やはり親子の問題というのは、この二元性感情ゲームにおける、最高難易度を誇るステージだ。



 イエスがいかに偉大なマスターであろうとも——

 この世ゲームに参加している以上、宇宙はどこかで面白くさせる。

(問題をあえてつくる)

 他人には超然として、カリスマ的雰囲気を発していたイエスも。

 無条件の愛の香りを漂わせていたイエスも。

 いざ母の前では、「かあちゃんとのケンカ」を演じる。

 関西出身の人が、東京に引っ越してきて、長く暮らしていて、なんとか普段は標準語になったが、実家の母としゃべるときは自然と関西弁に戻る。

 それと同じように、母の前ではイエスは 「フツーの息子」 に戻れたのではないか。そう考えると、イエスがかわいく思えてくる。

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