イエスは世渡りがヘタ ~外部のお客様にも弟子みたく接してしまう~

 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

 イエスは答えて言われた。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(説明が長いので中略)」

 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない……(以下略)」



 ヨハネによる福音書 3章1~11節より抜粋



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 イエス・キリストと言えば、キリスト教の枠内を飛び越えて、スピリチュアルの世界ですら一定の尊敬と崇拝を勝ち取っている、偉大な人物である。

 私はクリスチャンをやっていたから分かるが、そういう人々は「イエス様絶対」なのである。神だから、間違わない。常に完璧。発する言葉は、常に千金に値する。

 キリスト教の世界では、聖書の言葉、特にイエスの言葉を「御言葉(みことば)」 という言い方で、うやうやしく扱う。一字一句として、聖書の中に「くだらない言葉は存在しない」というのが、クリスチャンたちのもつ矜持でもある。

 私には、クリスチャンをやっている時にはまったくヘンに思わなかったのに、やめてから「ちょっとこれってマズくね?」と感じるイエスの言葉も多い。

 そのうちのひとつが、今日の箇所である。



 ニコデモという人物が登場する。

 イエスを十字架にかける側の権力者層である。その仲間のひとりでありながら、彼はイエスに好意的だった。イエスの死刑にも、この人物だけが最後まで反対している。(結果は実らなかったが)

 イエスが死んだ後も、死体の防腐処理や墓の用意などその他の面倒を見ている。

 いわば、本当にありがたい存在なのである。

 へんな話、イエスは(いくら神の子だろうが覚者だろうが)彼に足を向けて寝られないほど、お世話になるのである。そのことを分かってないイエスではないはずなのだが……今日の聖書箇所を追って行こう。



「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」



 これって一応、イエスへの尊敬を言い表しているのである。

 そりゃ、イエスほどの人物のハイレベルなものの捉え方になると、その尊敬の質がとか動機がとか、厳しめの話になるのかもしれない。

 でも、マスターだろうが何だろうがこの世界に、他との関係性の中で生きているのだ。そこには、すべては素直な思いが重要って言ったって、「ほどよい距離感」ってものがある。

 動機は幼いかもしれないが、他者の好意は素直に受け取っておくものである。それなのにイエスは、ニコデモの賛辞など耳に入らなかったように、ぜんぜん違う話を始めてしまう。

 


「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」



 ユダヤ教では聞いたこともないような突飛なお話が始まった。これまでの既成概念でしか捉えられないニコデモには、どういうことなのか分からない。

 イエスがしゃべっているのは、「新生」というキリスト教の奥義であるが、今日重要なのはそこじゃないので、説明は割愛する。

 ニコデモはその素直な困惑を口にする。



 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。



 さぁ、それに対する真実の愛のマスター(なはず……)のイエスの返答。



「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」



 あの……イスラエルの教師であっても皆、あなたの言うことは分からないと思いますよ……

 しかも、こんなことが分からないのか、って!

 あなた、その人にだいぶとお世話になるんですよ。

 死刑にも反対してくれ、死体処理や墓の用意までしてくれて……

 クリスチャンみたく、イエスは完璧で間違わないとか、一見とんでもない言葉でも、神なのでそこには 「深い意味やお計らいがある」っていうバイアスなしで読んでみようよ。



「あんた、中学生にもなってこんなことも分かんないの?」


 

 おカンとか、クラスの優等生とかに言われたらカチン、とくるであろう言葉。

 これと同じ。普通の感覚があったら、相手を思いやる気持ちがあったら言わない。同じ言うにしても、もっと言い方というものがある。

 ガチンコ! なんとか塾みたいに、厳しくすることが愛、的な話かもしれない。それだけニコデモを買っているからこそ、要求水準も高くなるのだ、と。

 にしてもね……内弟子に言うならいいけど、一応ニコデモって「外部のお客さん」なんですけど。 



 総じて、ものの見方が突き抜けた人というのは、例外もあるが人づきあいが下手である。悪気なく不器用である。イエスがまずそうだった。

 大事にするものの優先順位がその他大勢と違うので、時折周囲を困惑させる。

 もちろん、時として本当に厳しいことを言うべき場面もあるだろう。にしても、やはり相手に対する「心地よい距離感」というものを大事にすることは必要。

 この世ゲームをしているということ。幻想であっても、他キャラとの関係力学の上で動いているのだということを忘れずにおくこと。

 イエスのように悟りが過ぎて、ゲームをゲームだと見抜き過ぎるのも、ちょっと考えものである。

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