私の肉と血を喰らえ!② ~友達断捨離王・イエス~
『わたしは命のパンである。わたしは、天から降ってきた生きたパンである。これを食べる者は死なない。そしてその人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。』
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」 と、互いに激しく議論を始めた。イエスは言われた。
『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。』
これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気付いて言われた。「あなたがたは、このことにつまづくのか。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは12人に、「あなたがたも離れていきたいか」 と言われた。シモン・ペトロ (一番弟子。筆者注) が答えた。「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ、神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
新約聖書 ヨハネによる福音書 6章41~71節の要約
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仮にこの世に「友達減らしコンテスト」 なんてものがあったとしたら、過去未来全人類含めて優勝者は誰か? と考えた時、それはイエス・キリストかもしれない、と思った。
彼こそ、人類史上最大の大量「友達断捨離」をやったのである。
イエスは現代で例えて言うと、有名人である。
フェイスブックには限界の5千人近くいっぱいの 「友達」がいる。
「今日は、イエスさまの所へ病気を治しに来てます!」なんて、フェイスブックでシェアし、イエスにタグ付けする。「~さんは、イエス・キリストと一緒です」。
ツィッターにもものすごい数のフォロワー。彼が何かつぶやいたら、皆にリツィートされ、その言葉は世界中を駆け巡る。分刻みで会う人が代わり、プライベートもほぼなし。そんな感じだと思う。
事実、ネットやTV・ラジオはおろか、電話・まともな郵便制度もなかったこの時代なのに、彼の行く先々でその説教を聞く人は常に数千人に及んだ。
でもイエスは、どこかでそれがなにか優越感を与えてくれたり、「オレは充実した人生を生きてる」という実感を与えてくれたりすることが楽しめない精神ステージへ移行した。もう、その「遊び」には飽きたのだ。
ここへきて、「真に持つべきもの」について考えた。
断捨離なんて、二千年以上前の大昔から、誰かは考えていたこと。
ただ、物質文明と化した今特有で、「ムダなモノを捨てる」という、くだらないことにこの考え方は応用されている。そんなもん、捨てたきゃ捨てたらいいし、捨てたくなけりゃ捨てなければいい。捨てないその事実があなたを不幸にするなどない。それは、あなたがたがそう決めつけるからだ。
むしろ断捨離の意義は、モノの整理以上に「人間関係の整理」にこそある。
で、イエスは本気で友達を減らしにかかった。
ここで言う友達とは、「フェイスブックで友達、あるいは趣味(利害)が一致するので、何となく行動を共にしたり、ワイワイ群れておしゃべりをする人間」 のこととする。
わざと、人に嫌われることを言ってみせたのだ。
ふるい落とし試験。面接試験のようなものと言ってもいい。
「オレの肉を食べ血を飲まないと、オレの伝えようとしていることは分からんよ。」
それを、フツーに聞くと、「うわ、コイツ最悪や。こんなやつ友達と思うてたなんて、恥ずかしいわ~!」 「目が覚めたわ~!もう二度とこの人のブログ読まへん!ライブも行かへん!」というような反応に、大体はなる。
これは、イエスの失言ではない。ちゃんと、意図のある確信犯的行動だったのである。
イエスは、せっかくこの世ゲームにエントリーしたのだから、あらゆる体験をしてみたかった。その「あらゆる体験」の中に、有名人になることも含まれていた。
彼はそれを十分味わった。で、「もういいや」となったのである。思ったより「くだらない」ということが分かったから、捨てにかかったのである。
イエスの 「人肉・生き血摂取発言」は効果てきめん。
おそらく、数日にして数万人の「イエスに好意的な人」を失ったと思われる。
引用した福音書では、最後に残ったのは12弟子だけのように書かれている。
たとえアバウトな数としても、極端ですよね。本気で数えればファンはイスラエル地方に10数万人はいたかもしれない有名人が、たったひとつの発言が「炎上」を招き、一気に嫌われ者に転落した。
でもそれは、外野からの物の見方。当のイエスはというとさばけたもので——
残った12人に、「おお、お前らだけは残ってくれたか! うれしいぞ!」 と感激したかというと、全然そんなことはない。むしろこう言った。
「何だ、お前らまだおったんや。別に、去ってもええねんで?」
聖書本文の「あなたがたも離れていきたいか」というイエスの言葉は、「おまえらだけは分かってくれるよな? お前らだけは離れていかへんよな?」 というイエスの懇願にも似た「理解を求める気持ち」と解釈するのは浅い。「おまえらも別にええねんで」 という、かえって「もっと残りを減らそう」とする発言だったのだ。
最終面接試験みたいなもので、これを突破して残っていたら、「トモダチ」なわけ。イエスは、本当に必要な友は12人でさえも多いと思ったようだ。
我々の勘違いしやすい部分を指摘しておこう。
イエスが10万人からいた「好意的な人を失った」という事実、そして最終的に12人しか残らなかった(十字架の時にはゼロになった皮肉は置いといて)というのは、計算式で示すと——
10,0012-12=12
このように、10万人の友を失い、最後に12人だけ残った、と考えるべきではない。本当は、こうだ。
12=12
最初から、10万人なんて存在しなかったのだ。そんなものは意味がなく、中身はからっぽだったのだ。
実は、今回の事件でイエスは何も失っていない。
ただ、実体の本質が明らかになっただけのこと。
失ったと思えるそれは、最初からなかったも同然の価値だった。
芥川龍之介の短編『杜子春』でも、貧乏な杜子春には誰一人友達はいなかったが、仙人の助けにより大金持ちになると、途端に無数の友達ができる。しかし、数年して贅沢のしすぎで財産がなくなると、また友達はゼロになった。
それも同じで、失ったのではなく最初から本当の友達などゼロだったのだ。
私も最近、しょうもない友達を減らしにかかった。
まぁ、普段から言ってることがアレなんで(笑)、特に目立った努力をしなくても勝手に減っていっている側面もあるのだが……やっぱり私が「あの人はええや」と思った人が、こちらからアプローチしなくても向こうで離れてくれる、という不思議な偶然が起こっている。
これがホントの、願望実現?
客商売としては、もう店じまいになってもおかしくないやりかたを私はしている。
でも、それでも私の著作やトークを楽しみにしてくれるご奇特な方がいる。
いや、だからこそ「それでも好き」という人だけが集まり、残る。
●それ以外の味方は、人生の戦力にはならない。
もちろん、一人では生きられない。数人に頼るだけで生きれるはずがない。衣食住。電気ガス水道。農作物や各種サービスなど、大勢の人々に支えられている。
でも、私が言っているのはそういう次元の話ではない、ということは聡明な読者様ならお分かりですよね? 大事なのは、あなたの人生において、ここぞという時に残った人物のことである。
「まさかの時の友こそ真の友」ということわざは真実である。
杜子春と一緒で、あなたが有名人であったりお金持ちであったり、色々な人の利害関係に寄与できる力がある時に寄ってくる人、ワイワイ騒げる人はほぼ去っていく。あなたが地獄を見た時に。
イエス・キリストは皮肉なことに、その12人すら逮捕される時には皆逃げた。
見た目には、「ゼロ」になったのである。
まぁ、そういうハードな人生シナリオもあろう。ご苦労様なことである。
この世界には、すべての可能性を味わうために来た。
ゆえに、イエスのような道も誰かが歩まねば、体験せねばならなかった。
そういう、誰でも負えるわけではない難しい役割を、イエスが担ってくれたので、我々は彼に感謝するのである。
だからこそ彼の名は、二千年以上経った今でも忘れられていないのである。
最後に、前回の記事でも引用した言葉を載せて締めくくろう。
この言葉は、それだけ重要だから。
●人の聞きたがる言葉を、頑張って言う必要はありません
あなたの魂が、言いたいと叫ぶことを言いなさい
なぜなら、それを気にするような人は
あなたにとって重要な人たちではありませんし
あなたにとって本当に重要な人たちなら
そんなことは気にしないだろうからです
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