私の肉と血を喰らえ!① ~言いたい放題のイエス~

『わたしは命のパンである。わたしは、天から降ってきた生きたパンである。これを食べる者は死なない。そしてその人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。』

 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」 と、互いに激しく議論を始めた。イエスは言われた。

『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。』

 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。



 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気付いて言われた。「あなたがたは、このことにつまづくのか。」

 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは12人に、「あなたがたも離れていきたいか」 と言われた。シモン・ペトロ (一番弟子。筆者注) が答えた。「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ、神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」



 ヨハネによる福音書 6章41~71節の要約



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 冒頭に紹介したのは、聖書から抜粋した、イエス・キリストのエピソードである。

 イエスは、弟子たちへのメッセージの中で、何と言ったか。

 自分の肉を食べ、血を飲めというようなことを言ったのだ。

 言葉としての表面的な意味では、確かにホラー映画のような意味合いにとれる。

 でも、皆さん多分お察しのように、イエスは文字通りのことを言いたかったわけではない。

 自分の血を飲み、肉を食べろと言うことは、つまりはイエスの伝えるメッセージを素直に聞き、自らの意志で受け入れ生かしていくことを意味する。そうすることで、イエスの教えがその人の中で結実し、その人の血となり肉となり、イエスと等しい者(血肉を分けた分身。兄弟)になる、というイメージだろう。

 物理的に肉を食べ血を飲むことを指したのではなく、精神的な意味合いでの受け入れのことを言ったのだ。

 でも、当時の頭の固い弟子たちの多くは、悪いふうに受け取ってイエスを誤解し、去って行った。



 ここで注目すべき点がある。

 イエスは、弟子たちが意味を誤解することを恐れて、もっと慎重な言葉を選ぶこともできた。幼い弟子が誤解する可能性くらい、予測できないイエスではないはず。

 でも、イエスはそんなことは気にした様子もない。

「自分の血を飲み、肉を食べろ」 と、誤解も恐れず言いたいように言った。

 しかも、「今そう言ったのはね、じつはこれこれこういう意味で……」 なんて説明も弁解もナシ。

 実に、潔い。

 誤解して弟子たちが離れて行っても、動じる気配がない。

 それどころか、弟子の中心となる12人に対しても

「お前たちは残ってくれぇ~! 頼む、な? な?」

 などと泣きついてもいない。

「お前たちも、去りたいか? それならそれで、別に構わないけど」

 そう言わんばかりの余裕。

 結局、12人の弟子は去らなかった。まぁ、そこはさすがにイエスの側近。

 あの言葉が、イエスがスプラッターホラー好きだから言ったのではないと判断できたようだ。



●このマスター・イエスほど言いたい放題だった人を知らない。

 彼こそ、キング・オブ・言いたい放題である。



 本当に、恐れがないんだもの。

 こう言ったら、誤解されるかなぁ。こういう言い方をしたら、突っ込まれるかなぁ?

 一般の人はもちろん、有名人になればなおさら発言上の事は気を付ける。心からそうしたくて気を付けるというよりは、ほとんどのケースで「恐怖」が動機だ。

 その点、イエスはすごい。

 表現から来る誤解を恐れずに、言いたいように表現しただけでなく、その後の弁解もフォローもなし。



●人の聞きたがる言葉を、頑張って言う必要はありません

 あなたの魂が、言いたいと叫ぶことを言いなさい

 なぜなら、それを気にするような人は

 あなたにとって重要な人たちではありませんし

 あなたにとって本当に重要な人たちなら

 そんなことは気にしないだろうからです



 この言葉を、究極まで実践した先駆者は、明らかにイエスである。

 彼は全世界の人を愛してはいたが、すべての人に人間的に好かれようとは思っていなかった。

 人々を本質に立ち返らせたいがために、必要なことはズバズバ言った。

 彼は、自分の身の安全や保身のために、言いたいことを制限したりしたいことをやめたりしなかった。

 むしろ、体だけがのうのうと生き残っても、人生の主権が自分以外のところにあるなど我慢ならなかった。

 今回のケースでは、イエスがきわどい表現で説教したせいで、誤解した弟子が大勢離れていった。

 しかしその後も、イエスの態度は全然変わらなかったため、時の権力者の癇に障って怒らせてしまい、最終的には無実の罪で十字架で処刑された。

 そこまで、彼は徹底していた。恐れがなかった。

 何が起ころうとも、それよりも「人生の主権が外部ではなく、自分にあること」 に重きを置いた。まさに、筋金入りの覚者(マスター)である。



 だから、私も後に続きたいのである。

 私が本書で、恐れず言いたいことを言うのは、そのためである。

 幸いなことに、言いたい放題言えば捕まったり、命を奪われたりするイエスの時代とは違う。今ならせいぜい、あっても文句を言われたり、批判的なコメントをカキカキされる程度。



●他者からどう見られるか、なんて恐れは捨てて

 言いたいことを、腹から言いましょう。

 反応によって引き出されたような、不自由な言葉ではなく

 自らの意志で選択した、心からの言葉で人生を彩りましょう。

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