サマリアの女 ~あなたにもきっと起きる、劇的変化~

【イエスとサマリアの女】



 イエスはユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。

 しかし、サマリアを通らねばならなかった。

 それで、シカルというサマリアの町に来られた。そこには井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。

 正午ごろのことである。

 あるサマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。その時、弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。

 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」


 (中略)


 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。

 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。

「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」



 ヨハネによる福音書 4章1~29節を要約



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 いいえ わたしは~

 サマリアの女~ ♪



 ……ちょっと違うか。

 イエスが、サマリアという町に立ち寄られた時の出来事である。

 イエスは、のどの渇きを覚えられた。で、水ば飲みてぇと思ったわけよ。そこでイエスは、そのタイミングで水がめを持って水汲みに来た女に頼んだわけさ。

「お冷や一杯、もらえる?」



 聖書の記述によれば、声をかけられた女はビックリしている。

「な、何であんた私に話しかけるの……!?」

 その後に、少しだけ理由が書いてある。

『ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。』

 細かくはここでは触れないが、同じユダヤ教でも、重きを置く経典や聖地が違うので、互いにケンカしていた。なるほど、犬猿の仲のユダヤ人から声をかけられたら、警戒するだろう。

 ちょっと、偏見の目で見てしまうだろう。

 でも、この理由は、サマリアの女がビックリした理由としては、弱い。

 実は、この女が声をかけられたことを恐れる、ある理由があった。



●当時のユダヤでは——

 往来で大人の男女が大っぴらに会話をするのは、タブーだった。



 これが現代なら、ほとんどの人が留置所行きだな。

 ビックリな話だが、本当である。

 例え夫婦であっても、だそうである。

 だから、相手がいけ好かないユダヤ人、という以上にもっと冷や汗もののシチュエーションだった。

 うっそー! この人マジ私に話しかけているの?

 何て命知らずな!(それともナンパ?)

 ちなみに、弟子たちもあとで、イエスと女がしゃべっているのを見てビックリした、というのもそのためである。まだ未熟な彼らは、「私は何も見てない。見てない……」 というふうに、見て見ぬふりが精いっぱいだったろう。常識にしっかり縛られていた彼らは、まだイエスの行動の本当の価値を見抜けなかった。

 弟子たちが、あえてイエスに何も尋ねなかったのは、ツーカーの仲だとか理解し合えていたとかではなく「怖くて何も聞けなかった」だけのことである。



 聖書を書いた人物は、この文章がはるか先の時代の人間に読まれるとは思ってもみなかった。だから、同時代の他国人のために「サマリアとユダヤの仲が悪かった」とは説明しているが——

「大人の男女が道端で話をしない」 のは当たり前すぎて、読者は知ってるはずだから書かなかったのだ。

 現代だと、その辺の事情(男女間の作法)はずいぶん進んでいるので、まず読み取れない。



 もうひとつ、独学で普通に読んでいたのでは分からないことがある。

 サマリアの女が井戸に水を汲みに来たのは、正午だとある。

 当時は普通、朝に水は汲むものなのだ。

 じゃあ、なぜ遅い昼などに汲みに来る?



 ご近所さんと、顔を合わせたくないのである。

 長文になるので省略した、聖書引用箇所の『中略』の部分に——

 イエスが、このサマリアの女が5人も夫を替え、今も不倫状態にあることを言い当てる場面がある。

 女はいわゆる「日陰者」というやつである。

 今みたいに、「不倫は文化だ~」なんてとんでもない。

 下手をしたら、命を奪われかねないほど、宗教的な縛りがきつかった。

 だから彼女は、できるだけ人と出会わないようにしていたのだ。

 もう、これ以上後ろ指を指され、傷付くのはごめんだったのだ。このさそり座の女——じゃなかったサマリアの女には、そんな事情背景があったのだ。



 サマリアの女は、最初常識外れで命知らずなイエスの行動に、ビックリした。

 でも、そんな風にイエスが先にアプローチしてくれたからこそ、女はその深い話を聞くことができた。さらにうまいことに、この女の心はイエスの話を受け入れるだけの準備が整っていた。耕されていて、種をまかれるのを待っていた。

 次の精神ステージに移行する、一歩手前にいた。

 渡りに舟、というやつである。

 彼女は、大いなる「気付き」を経て生まれ変わる。



 その結果、どうなったか。

 聖書の記述によれば、水がめを井戸に置いたまま、町に駆けて行ったとある。

 どうしても、感激のあまり「イエスの話の素晴らしさ」を伝えたかった。

 すごいことじゃありませんか?

 日陰者で、過去の負い目から人目を避けていた女がですよ。

 町の人々に、恥も外聞もなく叫ぶんですよ。

 自分が心から伝えたいことを。

 この時のサマリアの女の顔は、輝いていたのだろうな、と思う。



 皆さんも、大なり小なりあるだろう。

 常識や、こんなことしたらどうなるか、という恐怖。

 様々な縛りが、あなたの行動を制限してくる。

 体の縮こまったような、窮屈な魂の状態が。



 でも、宇宙の流れの必然で、劇的な出会いが起こる。

 飛躍へのチャンスが、見える場面がある。

 それをつかむかどうかは、その人次第。一度つかんだなら、そこにはその人も想像できないような素晴らしい展開が待っている。

 そして、まるで「生まれ変わる」かのような現象が起こる。

 今回の例では、30分ほど前までは他人の目を気にしてビクビク生きている陰のある女が、今や何者の目をも恐れない、神の子になったのである。

 他人の目がどうこうに関係なく言いたいことを言い、やりたいことをする自由に目覚めた。外部の条件に自分の幸せや行動範囲を決められる呪いを、ブレイクスルーしたのだ。



 きっと、起こります。あなたにも。

 本来自由なはずの、神としてのあなたの魂。

 それを縛るものを断つ道への気付きが。そのチャンスが来ます。

 来た、という予感が少しでもしたなら、逃がさないでください。

 安心して、そこにくつろいで、流れに逆らわず任せてみてください。

 このサマリアの女に起こったようなことが、あなたにも起こる。

 そのためのお手伝いを、私はこれからもしていくつもりです。

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