バプテスマのヨハネ、イエスを疑う ~相対世界の中心で絶対を叫ぶ~

●その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(中略)……だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」



 ヨハネによる福音書 1章29~34節



●ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」



 マタイによる福音書 11章2節



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 イエスの師である、「バプテスマのヨハネ」。

 イエスでなければ、この人物がメシア(救世主)だったろう、と称されるほど人望のあった人物。

 最初の聖書箇所は、ヨハネがイエスを「メシアだと認めた」発言をした箇所。

 誰かを「救世主だ」と公に認めるのは、どれほどの重い発言だったか分かるだろうか。社会に影響力のある人物の発言ともなれば、なおさら。軽はずみに言えようことではなく、かなりの確信を必要としたはず。

 事実、ヨハネは天の啓示のようなものによって、この重大な事実を認識するに至った。でも、わずか一年たらずの内に、ヨハネは変わってしまうことになる。



 二つ目の聖書箇所は、ダメ領主であるヘロデ王を正面切って批判したことにより恨みを買い、牢獄に囚われていたヨハネが、「イエスは本当にメシアか?」と悩んだ結果、弟子を通じてイエスに尋ねさせたものである。

 ヨハネに迷いが生じたのには様々な理由が考えられるが、絶対確実なことはもう分からない。

 イエスをメシアと認めることで、皆がイエスへ流れた。人気は完全にイエスへ移った。ヨハネほどの人物かその程度のことで、嫉妬なんてことで狂わせられたとはちと考えにくいが、第三者が一番思いつきやすい原因候補は、それである。

 でも、今日の話題で重要なのは、次のことである。



●一時、何かの絶対な確信に至っても、後にそれが変化することもある。



 私は、一度世に言われる覚醒体験というものをして、スピリチュアルな内容をメッセージするような立場になった。

 当時としては、自分がそれを「覚醒体験」と認識するくらいだから、本当に何かの根本をつかんだ気になったし、悟ったと思った。

 私はブログやYOUTUBEでメッセージを語りだし、有名メッセンジャーほど多くにではないが、講演もさせていただいてきた。もちろん、私は自信と確信に満ち溢れて、日々語ってきた。

「悟った」と思った者のなりやすい認識として、「これ以上の意識における大規模バージョンアップはない」と思ってしまう。だって、「悟った」んだもん! それすら考えにくいのに、「その確信が間違っていた」なんてのは、もっと考えにくいのではないか?

「えっと、あの時は悟りました、究極の真実をつかみましたと言いましたけど……ゴメンなさい、私間違ってました」 なんて、恥ずかしくて言えないでしょう。

 でも、私には起こった。

 決して以前を否定するほどではないが、メッセージの方向性はかなり違うものになった。



 今なら思う。

 覚醒したのどうの言ったって、私は依然として人間だ。

 分離の産物であり、諸行無常の変化の世界に身を置いている。

 完全覚醒したら、この世界から消える。

 肉体をもって活動している限り、その覚醒は限定的、部分的性格を宿命的にもつことになる。

 だから、一時ものすごく我が意を得たり、と思うことがあっても。この確信は、絶対に揺らがない! という強い感情体験をすることがあっても。時間という幻想がもたらす変化の波を、避けきることはできない。

 生きている以上、どんなことにおいても変化を免れ得ない。たとえ「悟り」という分野であっても例外ではないのだ、残念ながら。

 バプテスマのヨハネほどの人物の確信でも、理由はどうあれ揺らいだという事実。

 かなりの慎重な思索と責任ある決断、そして発表する勇気が必要になった事柄、それらの裏付けを一時は得た内容でさえも、彼は後に疑うに至った。

 どんな偉大な覚者でも、実は死ぬまで「変化し続けている」はずなのだ。

 そう見えないなら、それは本人が秘密にしているだけのこと。

 もしくは、「本当に最高の悟りに至ったぜ!」という傲慢から、自分の中の変化にすら気付けないほどのボンクラになっているか、だ。 



 一昔前、『世界の中心で愛を叫ぶ』というドラマが流行った。

『セカチュー』という略称でで慣れ親しまれた。

 結局、この諸行無常の世界で、それを超えた本質根源的な話をスピリチュアルという分野でするのは——



●相対世界の中心で絶対を叫ぶ



 ……みたいなことだ。これは、かなり無理のあることだ。

 言葉にすればするほど、本質から遠ざかる。

 理屈で説明すればするほど、虚しくなる。

 それらは、この世界でゲームをする上で「分からなくていい」性質のものであることにプラスして、「正確な言語化が不可能」というおまけつき。

 だから、誤解上等! の覚悟でやるのでなければ、スピリチュアルなど争いのもとである。

『タイムボカン』というアニメで、探し求められていたお宝「ダイナモンド」は、空気に触れると効力を失う、という性質のものだった。それを知らない者が発見した時に、安易に箱を開けてしまったせいで、全ては水泡に帰した。

 空とか、この世界の根源とか仕組みとか、そういうものを我々の認識できる範囲に引きづり降ろそうとすることは、これに似ている。



 私も、これまでの経緯で、生きている限り悟りや確信に「この上ない絶対などない」と分かった。一時は、この世界で学ぶことはないとまで思いかけたが、そんなこともないと分かった。

 残された時間で、私にさらにどのような体験が待っているのか。

 どのような、意識上の変革が起こり得るのか——

 楽しみに見ていきたい。

「相対の中心で絶対を叫ぶ」ことをしている、という自覚と謙虚さがないと、スピリチュアル畑の人間は足元をすくわれることになる。注意されたし!

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