ヨハネによる福音書の言葉
はじめに『やる気』ありき ~光と闇という概念に関する先入観~
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
【ヨハネによる福音書1章1~5節・口語訳】
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
有名な、聖書の言葉である。この世界の始まりを、七日間の天地創造で描く「創世記」とは違った観点から、世界の成り立ちを説明している。
聖書をめっちゃ大事にするキリスト教徒らしいが、この世界の初めにあったのが「言(ことば)」だったと言い切っている。もちろん、訳上の問題や時代時代の言葉のニュアンスの違いもあるが、まぁ「ことば」でいいだろう。
クリスチャンが、聖書の中の言葉を『
創世記において、神が「光あれ!」と言ったら光が創造された。そういうイメージだからね。
今回、数千年支持され誰も文句を挟まなかったこの絶対的な言葉を、筆者流にひっくり返してみたいと思う。
だってさ、このまま文字通り受け取ったんじゃ、何の生きる力にもならないんだもん。言葉(ロゴス)って言われても、意味分かんないでしょ? 分かる人にしか分からない理屈など、お飾りで無意味なものはない。
へぇ~、この世界は言葉でできたのかぁ、神(イエス)はすげぇなぁ、ありがたいなぁ(棒読み)という感想以外に、何が読み取れる?
最初の一行は、こう言い換えたい。
●初めに『やる気』があった。
一体、どういうことか。
本来、それ以上何もしなくていい存在。
それどころか、今そのままが完全だということを考えたら——
●何かをあえてした瞬間、完全という枠からはみ出す。
それくらい、「ただ在る」以上に何かをするのはリスクの大きいことであった。
でも、空(神)は、そのリスクを承知で、それでもこの二元性世界を創造した。
自分の中にある可能性を、余さず観察してみたくなったから。楽しみたくなったから。その熱い思い(意識)の前には、創造した世界がおおよそ「完全」とはかけ離れたものになるリスクは、何ほどのものではなかった。
例えば、初恋の人に告白することを考えてみたらいい。
心臓がドキドキする。血が沸騰して、緊張する。
フラれたらどうしよう。そしたら、今後同じクラスで同じ空間の中で過ごすのに、気まずい。
そういう色々な思考が押し寄せてくる。で、そのネガティブなほうのエネルギーに負けると、結果告白せずに卒業、ということになる。片思いという、ほろ苦い青春の1ページとして記憶される。
でも、好きだ! やっぱり言わずにおいたら一生後悔する! そういうエネルギーが、否定的な思考の力を越え、凌駕する場合がある。
思い(情的エネルギー)が、ああだこうだという小理屈を吹き飛ばす。
で、思い切って「好きです!」と告白を実行するという現象となる。
あえて二元性世界を創造することで、(幻想上)色々ややこしいことになるのは分かっていたが、それを乗り越えさせるほどに魅力的だったのだ。この世ゲームが。
私たちは、空をとりこにするほど、チャーミングなのである。
空は、今「観察意識」などという上品ぶった存在ではない。
身を乗り出して見ている。それどころか、体を動かして一緒に踊っている勢いだ。
以上のことから、最初に「やる気」があった。と言えるのである。
だって、義務じゃないから。本来、やらなくてよかったことだから。
なのに、しなくてもいいことを(しかもしたらしたで大変なことを)あえてやった。そこまでさせる情的エネルギーが、もちろん引き金である。
『タッチ』という名作アニメの主題歌の、こんな歌詞がある。
誰も愛さなければ淋しさなんて
知らずに過ぎていくのに
そっと悲しみにこんにちは
そう。何もしなければ、とりあえず問題は起こらない。
誰も、傷付かない。
でも、それをどこかで分かっていながらも、人は感情ドラマを紡がずにはいられない。ここはそんな、愚かしくも愛すべき世界なのだ。
では、筆者流に冒頭の聖句を言い換えてみよう。
●はじめに、やる気(情熱)があった。
本来、完全・永遠・絶対の静寂の中で、何をする必要もなかった。
しかし、どうしても自分の中にある「可能性」を、ひとつひとう検証してみたくなった。
もちろん、それをいったん始めれば、果てしない旅になることは、目に見えていた。しかしその予測すらも、空がこの壮大なゲームを始めることを止めることはできなかった。
そのやる気(情熱)エネルギーは、ワンネスを無数の個という幻想に分離させ、この世のすべての万物、プラスしてゲームキャラとしての「人間」をつくった。
その人間は、空が正体なのでやはり神であった。
すべての存在は、例外なく意識(魂。ワンネスの本質)をもって輝いている。
空のやる気(情熱)は、当然子である人間にも引き継がれた。
時として負けることやくじけることがあっても、世代をまたいででも情熱が志向したことは、必ず実現される。たとえそれを邪魔するものがあっても、この世ゲームを推し進めていこうと意図する大元意識を妨げることは不可能。
この聖句の、最後の一行が。結構やっかいである。
●光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
きっと、光とは善・闇とは悪を大まかには指すと思われる。
これが、長年の人間の誤解である。これは人間の願望が勝手に神の言葉としての聖書に紛れ込んだものである。いわば「私情をはさんだ」のであり、宇宙システム的に光は闇になど勝たなくていい。逆に闇も光に勝てない。
実は善も悪もただそれ単体では存在できない。善と悪は皮肉だが互いが互いを必要とし、依存し合ってやっと二つが存在できている。善と悪が戦っているように見えるのは、髪の毛が伸びたからちょっとその分を散髪屋でチョッキンチョッキンと切ってくるか、というような「整える」作業のようなもので、永遠にどちらかか勝つということはなく、バランスを維持して交互に場を制す。
この世界は、陰陽の融合、ハーモニーによって奏でられる。
この世界が、光だけになった状態を考えてごらんなさい。何も見えない。
つまり、概念として正反対の性質のペアがすべてにおいて存在していないことには、この二元性世界(陰陽につかさどられる世界)は維持できないのだ。
●光が闇に勝つ、という視点は的外れ。
光と闇が、お互いを認め合う。
そして、永遠の調和の中で変わらぬドラマを紡いでいく。
今、皆さんが光が闇を消し去る、とかいうことを本気で考えているのは——
エゴの働きである。
皆さんが「闇」と名付けているのは、あなたのエゴにとって都合の悪い物事たちである。イヤなもの、キライなものたちである。
これは、視点の変化によりどうにでもなる。
この世界に、誰にとっても固定されて「闇」であり「悪」である物事なんてない。
だから、聖書のこの部分は大間違い。
●光が闇に勝つのではない。
光と闇が仲良くする、というのも厳密には違う。
光にとっては闇に対する、闇にとっては光に対する——
認識の変化、視点の変化が起こるということである。
すべてはそのままであり、何かが消え去るとか負けるとかいうことではない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます