父よ彼らをゆるしたまえ① ~反応ではなく応答を~

 そのとき、イエスは言われた。

 父よ、彼らをお赦しください。

 自分が何をしているのか知らないのです。



 ルカによる福音書 23章34節



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 これは、イエスが無実の罪で十字架につけられた時に言われた言葉だとされている。聖書学的な話をすれば、これが本当にイエス自身の言葉だったかどうかは怪しい。でも、今日はそういうことはさておいて、この言葉から我々が得られる気付きについて考えてみたい。



 さて、普通無実の罪で死ぬような目に合えば、どうなるのが自然か?

 自分を殺そうとする連中を恨むだろう。許せないだろう。

 無実だから、死んでも死にきれないだろう。さぞ無念だろう。

 こうした、人間が長い歴史を経て学習して身に付けてきた思考(感情)パターンのことを、『反応』と呼ぶ。

 それは、もう慣れっこになっているため、努力せずとも自然にそうできる。

 物事に反応することは、実に簡単である。だからこの場合も、自分の運命を呪い周囲を恨むのが大方の人間の自然で簡単な「反応」なのだ。

 逆に言えば、それとは違う行動パターンを示すのは、かなりの余剰努力というか、パワーの要ることである。だって、慣れたパターンからあえて外れよう、とするからである。



 人間は、朝から晩まで反応ばかりである。

 数えてみれば、うんざりするほどである。

 他者から何か気に障ることを言われて、ムキに言葉を返すのは反応。

 子どもが親にお使いを言いつけられて、面倒だなぁというのは反応。

 とにかく、外から受け取った刺激情報に対して、自分の意思という回路を通さずに、簡単に出力してしまう行動全般を、反応と呼ぶ。

 人によっちゃ、一日のうちで反応以外の行動などしていないという場合もある。

 これでは、人として生きてなどいない。



●反応しかできないなら、ロボットと変わりない。



 イエス・キリストを十字架にかけた人々(当時の権力者層や宗教指導者層)の行動は、反応である。

 イエスの言葉の指し示すものが何か。そして、それはどのような価値をもつか?

 そういうことに考え至る以前の段階で、ハートで考えることを放棄したのだ。

 放棄した理由は、保身である。当時の常識や因習にしがみつき、それをイエスに壊されるのが都合の悪かった者が反応をしたのだ。 

 この不都合な存在を排除すべき、という。



 例えば、ある優秀な社員が、素晴らしい画期的な事業計画を提出してきたとする。

 でも、その上司がこの人物を個人的に嫌っていた場合。あるいは恨んでいた場合。

 その計画案が会社全体に大きな利益をもたらす、という視点には至れない。

 こいつに成功させてなるものか。こいつの案が成功するくらいなら、会社は発展しなくてもいい。

 結果、会社の利益よりも嫌いなやつの成功を阻むことが優先される。

 背に腹は代えられない、というが、こういう場合代えられる。

 感情がからめば、人は簡単に背に腹を代える。

 自分の意思とは違う所から来る、抗いがたい感情の流れこそが反応である。

 そういう意味では、感情と反応は、兄弟のような密接な関係にある。

 


 反応という行為のもつ最大の特徴は、そうすることが簡単であることにある。

 苦もなく、選択できる部分にある。

 自然な流れに任せたら、十中八九やってしまうであろう行動のことである。



 話を、イエスに戻そう。

 普通一般に多い「反応」ということで考えたら、イエスは無実の罪で殺される自分の運命を呪っても、なんらおかしくない。自分を陥れた人々を恨んでも、かえって自然である。

 でも、イエスがこの場面でしたのは、反応ではなかった。

 では、反応の反対とは何か。



●それは、意思による選択である。



 人類がこの宇宙ゲームを始めて以来、良くも悪くも様々な反応のクセを獲得してしまった。

 誰かに理不尽な目に遭わされたら、腹が立つという。

 それがひどいレベルの場合は、相手を殺してやりたいと思うような。

 相手にも、自分にされた(あるいは大事な人にされた)ひどいことと同レベルの苦痛を味わわせてやらないと気が済まない、という。

 それは、まさしく『反応』である。

 でも、私はその反応を悪いとは言えない。反応する人を責めることはできない。

 なぜなら、それは同情の余地があるほどに、無視できないレールなのだ。

 これを外れようとする努力は、並大抵ではない。



 でも、その並大抵でない芸当を成し遂げたのが、イエスである。

 なぜ、この十字架の事件が、歴史を通じこれほどまでに影響力をもつのか。

 それは、覚醒者イエスが人類がこの二元性ゲームを優位にすすめるための必勝法を示したからだ。

 キリストは、十字架において神も人も恨まなかったことを通して何を示したのか?



●人は、反応しかできない生き物ではない。

 自らの意志で、叡智によって——

 魂が最善とする行為を、あえて選択することができる。



 イエスは、反応しなかった。

 宇宙に起こることは最善(人の都合にとっての、ではない)であり、何の問題でもない。自分が十字架にかかるということが起こりえたなら、それは宇宙が許可した。

 最大の叡智である宇宙が起こしたのだから、人間的エゴや都合で価値判断しても意味がない。

 かえって、人間はある状況下で反応するばかりでなく、意思によって選択する自由もあると皆に示すよい機会だとイエスはとらえた。逆転の発想である。

 イエスのこの言葉——

「彼らは、自分が何をしているのか知らないのです」

 これは、別訳では『彼らは、自分が何をしているのか分からないでいるのです』 とも。



●分からない=受け止めて考えることをしていない=反射的行動



 高い椅子に座って両足を浮かしてブラブラした状態で、ひざ下をコンと叩くと足がビクッと跳ね上がる。

 保健体育で習ったことがあるとおもうが、この現象を膝蓋腱反射(しつがいけんはんしゃ)と呼ぶ。

 頭で考えたり、命令などしていないのに、脳を介さず勝手に起こる反応である。

 イエスを十字架にかけた者たちは、感情の熱病に浮かされていたようなものである。完全に、ハートの回路がマヒしていた。

 反応のせいで、尊厳ある人間としての選択の自由を行使できなかった。

 ハートを介する余裕も与えられず、事に及んでしまったのである。



 新時代を生きる上でのヒントを、イエスは与えてくれる。

 反応とは、過去から積み上げられてきたマイナスの遺産であり、幻想に過ぎない遺物。私たちは、これまで考えなしに反応ばかりを選択してきた。

 でも、私たちはハートからの判断ができるのだ。やろうと思えば。

 私は、反応ではなく『応答』をオススメする。   

 応答とは、ある外的情報に対して無防備に反応するのではなく——

 応じて、答える。



●先入観なく、いったんありのままを受け止めてみる。

 その上で、結論を出した内容をもって、応える。



 これができてこそ、人として、ゲームキャラとして与えられた本来の能力を、フル活用することになる。 

 


 一時的な不安や恐怖をただ鎮めるためだけの、安っぽい防御反応ではなく、もっと長い目で見た真の喜び、真の利益に繋がる選択をしよう。

 外の力によって、否応なく引き出される行動などに大した価値はない。

 自分のエゴや肉体ではなく、魂が喜んでいると分かる選択を自ら選び取る。

 これこそが、人間ゲームにおけるあっぱれな勝利法である。


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