父よ彼らをゆるしたまえ② ~分かってないやつらへの対処~
そのとき、イエスは言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
ルカによる福音書 23章34節
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イエス・キリストが二千年を経た今でも、ブッダと並び人々に覚えられ慕われている理由のひとつに、「人類の中でも最大級の試練シナリオに当たった人物」であるからであろう。
イエスの十字架事件は、今でも「世界の歴史における最重要事件」のように捉えられている。それだけインパクトがあり、人の魂に与える衝撃が大きい。
人は一人ひとり、歴史上存在し亡くなった者もすべて含め、ひとつとして同じ人生はない。その中でもイエスの担当した脚本は、かなり特殊なドラマだった。
もちろん、ただひどい目に遭ったというだけなら、イエス並の苦痛を体験した人は幾らでもいるだろう。ただイエスは、それを死の直前に昇華した。
さらに突っ込めば、ひどい目に遭ってそれを乗り越えた人間なら、イエスじゃなくても同程度の体験をした人物はいるだろう。でも、イエスは目立ってしまったのだ。国家権力を本気にさせたから。誰にも頼らず、自分一人で国レベルの人数と権力をムキにさせた。
見事に、人間のエゴをあぶり出しにしてみせたから。
そして、それから逃げないで死んでいったから。
イエスの処刑の後、その場にいた群衆の反応が、聖書に少しだけ書いてある。
●百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
【ルカによる福音書 23章47~48節】
これは、命を張った世界最高のカウンセリング例である。
国家権力と情報操作されやすい愚かな群衆は、生き延びイエスを葬ったけれど、自らの知恵の浅さと幼稚性を露呈した。逆にイエスは、死後二千年を超えて人々に覚えられる偉大な人物となった。
イエスは勝負には負け、在り方では勝った。
力の象徴である王と特権階級は、イエスに力で勝ったが在り方で負けた。
在り方に勝ち負けなどあるのか? という話をしたら厳密には「ない」が、この世界ではその考え方は現実的ではない(絶対に安全圏にいる人か、高い境地にいる人しかそれを言えない) ので、この幻想世界では「ある」ということにしておく。
ホームセンターで売られている茶碗と、中島誠之助が「いい仕事してますね~」と言うほどの名匠の手による焼き物が、同じなはずがない。言っちゃえば何でも分子原子の固まりだし、茶碗としての使い勝手もそう変わらないだろう。要は、茶碗としてどうかより実用性とは関係ない「芸術性」である。
すべての価値判断は、芸術性も含めすべて勝手な「生みだした基準」であるが、それはしっかりあることにして生きたほうがいい。
この世界がなぜ「幻想世界」と呼ばれるのか、考えてみるがいい。
すべて同価値、差はないと言ってしまえばこの世界の意味がない。
差を取ることが悟りとか言うが、その差が取れた意識状態のままなら価値はない。
差はないことが分かって、そこから「でもやっぱりあるものはある」に戻ってこそ、悟りに意味がある。
その「本来ないと知っているものを、あえてあるように生きることを認める」作業を怠ると、覚醒者は社会不適合者になる。
それか、自分に心地よい集団なり組織を作り上げてしまう。
話は思いっきり変わるが、ちょっとマイナーな映画 『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』という映画を見た。
大昔からある「機動警察パトレイバー」というロボットアニメの実写映画版。
私個人としては、この作品の世界観というか、見せ方にはちょっとクセがあるので、好きな人は好きだが「大衆受けしない」作品だと思っていた。でも、私が思うより人気あるんだね、十数年の時を超えてなお映画化するんだから。
内容は……まぁ頑張ってましたよ。
万民にオススメできる話ではないが。
肝心の映画のストーリーだが。
テログループが、自衛隊の最新鋭戦闘ヘリ・AH-88J2改『グレイゴースト』の強奪に成功。
このヘリはボディ全体に光学迷彩が施されてあり、周囲の景色に溶け込むことができる(透明化したように見える)ので、視認不可能。その恐るべきヘリが東京を襲う。それに対抗するのは、勝ち目があるとは思えない旧式の二足歩行ロボット。
見どころのドンパチシーンに関しては、今回は話題にはすまい。
私が一番印象深かったシーンは、警視庁のお偉い方たちの会議。
皆、自分なりの正義と筋を通したがるが、それは「本当にすべきこと」から若干ズレている。似たようなシーンは、「踊る大捜査線」の映画でもあった。事件は会議室で起きてるんじゃない! という名ゼリフのやつだ。
一番やるべきことを見据えているレイバー隊の隊長・後藤田が、自分の利権や組織の体面を守ることしか考えていない警察官僚に糾弾されまくる。その騒がしさを、冷めた目で見る後藤田。
イエスのように愛でゆるす、とはいかない彼が一言。
「……あなたがたには愛想が尽きた」
この場面で、後藤田とイエスがだぶって見えた。
無実のイエスを権力も群衆も、それぞれがそれぞれの理由で十字架に付ける。
ののしる群衆。嘲り笑う権力側の役人や兵士たち。
足元では、イエスの着物を誰がもらうかくじ引きが行われていた。
そんな状況でイエスは、怒りと恨みに我を忘れてののしり返すでもなく、静かに見据える。
「……この人たちは、自分がしていることを分かっていない」
言い換えると、何が自分たちに今の行動を取らせているのか、誰も自覚的・意識的になれていないということだ。中には、イエスに済まないと思いながらも何の行動も取れない連中もいたが、「無言は肯定と同じ」で、なんらほめられたものではない。
この残酷な世界では、気持ちがあるだけでは何の価値もない状況ってあるのだ。
東京がえらい現実に見舞われているのに、会議室で到底日本を守ろうとしているとは思えない発言や責任追及の応酬を見る後藤田。
無実の罪で、人のエゴのゆえに殺されようとしている命があり、落ち着いて考えたら本当はどっちがおかしいのか分かるのに、それでも強者が白を黒だと言えば黒になる。そんな世界に殺されようとしている喧騒を見渡すイエス。
その二人の姿が、私の中で重なった。
二人は、同じものをそこに見た。
それは、人類の永遠の課題。
ここで、ふたつの道がある。
ひとつは、イエスが取ったような道。
ひどいが、それも人だとして受け入れ取りなし、昇華していく道。
清濁併せ呑む、という覚悟は、やせ我慢でないならかなりの精神的成熟度が必要。
こちらは、選ぼうと思ってもできない場合があるので注意。
繰り返すが、人によってはやせ我慢になるので、無理は禁物。
ふたつめは、後藤田が取った道。
話の分からんやつは、もう相手にしない。するだけ疲れるし、腹も立つ。
だから割り切って、こういうやつに頼らずとも自分ができることの精一杯をやっていこう。
そうして、腹をくくって自分の信じた道を邁進する。
余計なものには意識を奪われないようにし、自分のしたいことに一点集中する——
これは、比較的取りやすい道。
敵をも愛せ、という高等テクは要らない。ただ無視すればいいだけ。
私は、無理しなくてもこちらでも十分だと思う。
あなたを不快にさせる者、邪魔をするものはできる範囲で無視しなさい。
その上で、自分にできることに、喜びや夢、情熱に懸けなさい。
ただし、どうしても外側を相手にしたくなったらー
その時は愛をもってするのでなければ、無駄だと覚悟しておやりなさい。
イエスがすでに、そのことを命を張って教えてくれたのだから。
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