前言撤回! 財布も靴も持っていけ ~イエスの主張の変化~
それから、イエスは使徒たちに言われた。
「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」
彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。
「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」
そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うとー
イエスは、「それでよい」と言われた。
ルカによる福音書 22章35~38節
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私が最近、「起こることが起こり、人間に厳密な意味での自由意志は、実はない」という話を始めたら——
「筆者さんは、これまで皆は宇宙の王だと言われ続けてきましたよね?
なのに、自由がないなんてそれのどこが宇宙の王なんでしょうか?」
そういうツッコミをいただいた。
私の中の人間自我の部分では、言いながら自分でもそう思う。
でも、この方のツッコミには一つの固定された前提が存在する。
●王=自分の思った通りに、自由にできる。選べる。
そういう、「王とは何か」という定義が多くの人の中にはあるだろう。
私の主張の変化を感じ取る時に、その物差しが顔を出す。
だから、自由意思というものががない、ということは皆さんが考える「王」の定義とはかけ離れるのだろう。
だから、「そんなの王じゃない!」という論理展開になるのは、仕方がない。そうなると、私の話を受け止めるには「王」というものの定義を書き換える必要がある。
それをしたくないなら、しなくていい。したかったら、やってみたらいい。ただそれだけ。
では、ちょっとでも私の主張に興味のある人向けに、どう書き換えたらいいか、について述べよう。
あなたが宇宙の王であるというのは——
あなたが 「何でも自由に作れる」 からではない。
もちろん、あなたが人生の(もっと言えば宇宙の)主人公である、ということは間違いない。
シナリオは起こり、自由はない。でもやはりあなたの世界にはあなたしかおらず、あなたがすべてを味わい感じている。
だから、「私は在る」という存在意識として(宇宙の提示した脚本とはいえ)見たり聞いたり感じたり行動したりできるということ、そのこと自体がすでに『奇跡』ではないか?
思い通りにいくとか、~の引き寄せに成功するとか以前に、「存在できて、ドラマに参加できている」こと自体が、「キング(王)」の証しであると言えないか?
私の境地としては、もうそれだけでお腹いっぱい。
その上で社会的に、客観的に成功するかどうか、幸せかどうかなんてのはオマケ。
プラスアルファとしてあったらあったでウエルカムだけど、なけりゃないでそうなんだと思うだけ。別段、比較して自分が人より得している、あるいは損だという認識はしょうもない。
●存在できている。
展開していくこのドラマに、リアルタイムに参戦できている。
これがすでに、王たるゆえんそのもの。
あと、覚醒というものに対する先入観も、誤解に拍車をかける。
悟り、というのは大ざっぱには宇宙の真理に目覚めることで——
もう、すべてが分かって、あとあと意見をガラリと変えたり、「あ、あれ違ってました」なんていうことは起こり得ないのではないか、という憶測がある。
悟りはある意味絶対であって、何かの事で確信内容が変わるものではない。コロコロコミックじゃないんだから、そんなにコロコロ変わっちゃおかしいだろ! と思われる傾向にある。
つまり、軸のブレちゃう「ニセモノ」という線を疑いだす。
まぁ、私はどっちに思われたっていいんだけどね。
覚醒者なんてね、マジで体が消えて「あちら」に行ったならともかく、肉体持って地球ゲームに参加して、同じように生きている限り皆さんと同じです。
その時々で、言うことも変わるってもんです。
だって、真理なんてないから。
諸行無常、万物流転。
少しも、同じものなんてあり続けない。
でも、「悟りは別」ってな風に、これだけは皆特別扱いに考える。
「変化から逃れられないもの」とは別カテゴリーに考えてしまう。
この二元性の世界に生きながらね! 例え精神の世界とはいえ、「絶対」があると考えてしまうのはもう「宗教」というものに歴史的に関わってきた人類の習い性みたいなもんかね。
覚醒者でも、言うことが変わり得る例をひとつ。
イエス・キリストである。
彼がいよいよ十字架にかかるぞ、というタイミングの少し前。
弟子たち (この時はまだ無様に逃げる前)に今後の事を説教した。
それが、冒頭に挙げた聖書の箇所である。
それまでイエスは、弟子にこう教えていた。
(神様の用事のために)出かける時には、何も持っていくな。
神が用意してくださる。あなたは神の働き人なのだから、行った先々で人々がくれるものを遠慮なく受け取りなさい。働き人が報酬を得るのは当然である。
何も心配しないがよい。神が導いてくださる——。
しかし。
覚者であっても、未来に起こることは確実に言い当てることはできないが、ムシの知らせのような「感覚」は受け取れることがある。
イエスは、感じたのだろう。
この世界のすべてが波動、すなわち「波形」であるとして、ここからは波の下の部分にさしかかると。陰陽でいう「陰」、つまり「ダダ下がり」のシナリオが来ると。
(もちろんそこにいい悪い、損だ得だ不公平だという話は意味がない)
だから、それまでは通用した理屈が、時代の変化・ゲームステージの変化によって通用しなくなる時もやってくる。今まで通用した武器が通用しない。
それは、今までのあなたの武器に耐性のある敵が現れたからで、今まで通りでは対処できない。ゆえに、その敵のあらたな「弱点」を探る必要があるのに似ている。
イエスは感じ取ったのだ。私の教えが通じないサイクルが、一時とはいえやってくる。(朗報を言えば、すべて諸行無常だということはその悪い状況すら終わりが来るということ)
闇の支配の時代が来る。(もちろん、いい悪いはない)
私は犯罪者として処刑され、弟子たちも皆希望を失って逃げる。
だから、これまで通りの「神様万歳路線」(何も問題はない、と信じて何の防衛策も立てない。信じて警戒すらしない)といういい子ちゃん路線ではやっていけない。
カモは食われる時代が来る。自分の身は、自分で守らねばならない。もう、今までの「イケイケモード」とは違うんだ。
これからはそれでいいんだと、教えてあげないと——。
だからイエスは弟子たちとの別れ際に、今まで持つなと言っていた財布も袋(かばんと思っていただいたらいい)も靴も、これからは持っていけ、と言ったのだ。
剣も、である。イエスの言葉とは思えないこの変わりよう!
●覚者が、前言撤回しているよ!
だからイエスはおかしい、と言いたいんではなく——
逆に「それでいいでしょ?」と言いたいのだ。
マスター・イエスをして、つい前まで言っていたことと違うことを言わしめるのだ。前言撤回的なことさえ言うのだ。
だって、彼の置かれた環境自体が「変化」という流れの中にある世界なのだ。
そんな世界で、本当に「ブレない」で生きると、様々な問題を生じる。
ブレないで生きる、ということがいいことのように言われているのが自己啓発やスピリチュアルだが、ブレなさすぎても、それはそれで支障をきたすのだ。
変化の世界では、自分も流れ通り変化するのが吉である。
もちろん、聖書学的な問題もある。
引用したこの部分は、ルカによる福音書しか載っていない。
他のマルコ・マタイ・ヨハネにはない。
本当にイエスが言ったのではない可能性もある。
でも、例えこれがウソでも、もうひとつの好例がある。
イエスは、死ぬ手前までは神を絶対的に信頼していた。そしてそれは揺るがないつもりだった。だから人にも指導してきた。
聖書の中でも、「ああ信仰の薄い者よ!」と、分からんちんの弟子や民衆に対して嘆く場面がある。
でも、最後の最後。イエスは、人生最大の「前言撤回」をしたのだ。
弟子にも逃げられ、何も成果は残らず、一生懸命生きた報いが最後この十字架刑とは……納得できなぁぁぁぁい!
三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
【マルコによる福音書 15章 34節】
これ、イエスが命を懸けて守ってきたものを疑った瞬間ね。
このために生きてきたのに、最後それを疑った。
覚者最大の、前言撤回。
神は愛だ。そう説いてきたのに、今イエスは「なんで私を見捨てた?」と思ったのだ。神が愛なら、見捨てるはずはないからだ。
結局、この瞬間までイエスは「その体験の瞬間まで通用する悟り」でしかなかった。そして今。状況の変化にふさわしい「悟りの変化」が来た。
……アハハ。そうだ。
今まで悟った感覚で、分からんやつには上から目線で信仰が薄いだの言ってきたなぁ。でも、自分がこうしてこういう立場に立ってみて、初めて分かったよ。
対岸の火事じゃなくなったよ。
幻想世界って、めちゃリアルぅ~~~~!
真に迫っているねぇ!
そりゃ負けもするわな。
民衆も弟子たちも。
「裏切りません」と豪語していてやっぱし逃げた第一弟子のペテロも。
私をカネで売ったユダも。
権力が牙を剥いたら手のひらを反すように寝返ったすべての人も。
私も、結局同じじゃないか。
私も今、あまりの苦しさと辛さ、やるせなさに疑ったぜ? 宇宙(神)を。
あ~やばやば。もうちょっとで最後まで騙されるところだった。
生きるって事は、「これでいいんだ」 。
その気付きに十字架上で至ったイエスは——
それまでの弱気な言葉から一転、こう言えたのだ。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
【ルカによる福音書 23章34節・46節】
「成し遂げられた」
【ヨハネによる福音書 19章30節】 (息を引き取る間際の言葉)
だからさ、今ここというダイナミックな力場において、「普段からこう主張しているんだからブレちゃだめ!」なんて窮屈な定規を当てたりしないでさ。
●その都度、感じたことが(その場では)真理。
だから、「その都度真理」(今、そう命名した)でいいじゃない。
ブレるとかブレないとか、一貫性がどうとか、そういう議論もあまり楽しくないし。今、素直に思うことを堂々と言えたら、それでいいじゃん。
それで突っ込んでくる人には、突っ込ませておけばいいじゃん。
起こることしか起きないから。
なるようにしかならないから。
気分よく、筋書きを追いましょ。
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