賽銭箱に誰よりもたくさん入れた人物は? ~アバンダンス(豊かさ)~


 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。

 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。

「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」



 ルカによる福音書 21章1~4節



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「豊かさ」という言葉がある。

 しかし「豊かさとは一体何なのか」 という定義が、この世界では実に曖昧模糊としている。

 もちろん、これが絶対に正解! というのはない。人により、その内容と表現は千差万別。でもここでは、筆者流の『豊かさの定義』というものを改めて伝えたい。



 冒頭に紹介した、聖書にあるイエスのエピソードを見ていこう。

 これはある日の、ユダヤ教の神殿でのことである。

 日本の神社みたいに、『お賽銭箱』がある。

 金属でできたラッパみたいな、コイン投入口がありまして。

 そこにお金 (当時コインのみ。紙のお札はない)を投入する。

 入れられたお金は、ある程度の長さのあるパイプを通過して、箱の中に納まる。

 その際に、いやらしい話だが「チャリーン」という金属音がするようになっている。つまり、参拝者はその音の大小で、誰がどれだけお金を入れたのか分かる仕組みだ。だから、金持ちたちが沢山コインを入れたら—— 



 チャリチャリチャリチャリリーン!



 そんな、ド派手な音がする。

 それで、周りの人々は 「あの人、献金めっちゃはずんだなぁ~すげ~」と思う。

 でも、貧乏人が50円玉程度の価値の銅貨(レプトン銅貨とはその程度の価値である)を、たった2枚申し訳程度に入れたらどんな音が?



 チャリーン…… 



 それを聞いた皆は、声には出さないまでも——

「……少ねっ」と思う。

 誰が、こんな意地悪なシステム作ったん? とその動機を問いたくなるが、とにかくそういうものなのである。



 イエスが、神殿にいて献金箱での様子を見ていた。

 そしたら、じゃらじゃらお金を入れていく金持ちに混じって、貧しい女がやってきた。彼女は、いわば未亡人である。働き手である夫を亡くした身。

 皆さんは、今の時代の感覚でこの文章を読むから、深刻さがあまり分からない。

 単身女性でもバイトできるし。高給ではないかもしれないが、ハケンの仕事だってある。怠けさえしなければ、とにかく食ってはいける。女性の地位が昔に比べ向上しているから、うまくすればいっぱしの男性並みに稼げる。



 でも、二千年前は違った。

 バイト先もない。そもそも、女性が社会の表舞台で働き稼ぐなどという発想自体がない。農作業か、手先を生かして何かを作って、露店で細々と売るかくらい。

 福利厚生もない。生活保護もない。そういう制度はまったく整っていない。

 だから、働き手である夫を失うことの意味は、今の時代より重いのだ。



 その、貧しい女が。

 本当なら、自分が生きるか死ぬかという死活問題のさなかにあるというのに。

 まず自分が食わないとどうするの? という状況にありながら。

 彼女は一体何をしたかというと、イエスが言った通りである。

「持っている生活費全部」を献金箱にブッ込んだ、というのだ!

 イエスは、言う。彼女は、他の誰よりもたくさん入れた、と。

 つまり、彼女が皆の中で一番「豊かさ」をつかんでいる、と言いたいのだ。



 ここでイエスは、明らかに「お金の額の大小」で人の豊かさを測っていない点に注意。イエスが言う豊かさの定義こそ、筆者も同意するズバリの内容である。



●損得や、恐れの思考に囚われず

 自分の好きなことや、これと思った情熱を懸けれる対象に

 どれだけお金や時間をかけることを自分に許可できるか



 その度合いの高さこそが、「豊かさ」である。

 金持ちは、確かに献金した額自体は、貧しい女の何千倍かもしれない。

 でも、イエスが指摘するように「有り余る中から(腹の痛まない分)を入れた」。

 こんなこと、その魂には何の感動もない。

 でも、貧しい女は神を愛していた。状況に関係なく、生きて在ることに感謝していた。ゆえに、神を愛する彼女の情熱、神の御業の働きのために自分が役立てることを、最大限しようとしたのである。

 もしこれがイヤイヤだったら、イエスは賞賛しなかったであろう。ほめたということは、やはり今私が述べたような思いで、この貧しい女は献金を入れたのである。

 100円ぽっちだったが、それは彼女のすべてを懸けたことを意味する。

 逆に金持ちたちは、自分たちを懸けてすらいない。



 ひらたく言えば、どれだけケチケチしないか、である。

 人は、無意識に色々な計算が働く。後先考え、損得考え、財布のひもをゆるめない。それで、心からしたいと思うことをあきらめる。

 でも、人は知らないからだ。富は循環する、という法則を。

 出しただけ、必ず入ってくるという力学を。

 でも、そこにはひとつだけ条件が要る。ただ出すだけではダメだ。

 


●感謝して出すこと。

 楽しんで出すこと。



 でも、これを言うと目指しだす人が出てくる。それはちょっと違う。

 方法を神にして、自分をそれに合わせようとしても意味がない。

 その瞬間に、あなたが心からそうしたいかどうか。あくまでもあなたが主人として王として、採用したいか。その瞬間を逃したら、時間が経てば経つほど意味はなくなる。頭で考えたあとであればあるほど無意味。

 心がついていかないなら、無理をする必要はない。

 すべての体験は同価値だから。あなたの今の状況こそが、最善なのだから。

 背伸びする必要はない。自然な在り方でいればいい。



 私はかつて、あるスピリチュアルなセミナーに参加した。

 当時の稼ぎは月15万で、結婚して奥さんと赤ちゃんがいた。

 セミナーの参加費は、33万8千円。

 色々考えたら、やめとこうか、となる。てか、そっちのほうが常識的である。

 参加する方が無謀、という感覚の方が普通だろう。

 でも、私の中で情熱のほうが勝った。

 だって、「今ここ」においてどうしても参加したい! と思ったのだ。

 本当に、言葉では説明のしにくい情的エネルギーが私の背中を押した。

 先ほどの貧しい女と同じ立場だ。



●私は有り余る中からお金を出したのではなく——

 乏しい中からでも、情熱のために高額をつぎ込んだ。



 その私の波動は、それにふさわしい似た波動のものをどんどん引き寄せることになる。結果として、その後半年たたないうちに、スピリチュアルメッセンジャーとしての職を得、活動をすることになった。

 誤解のないように言うと、少ない中から思い切って多額のお金を出した、という行為そのものが重要なのではない。大事なのはあくまでも、行きたい! 楽しそう! 自分が変われそう、というワクワク感。これがあったから、大して意思の決断の力を使わなくても、すんなりお金を払えた世界がある。

 う~んう~ん唸りながら苦し紛れに決めるのは、健全ではない。そういう時は無理せず、やめたらいい。

 気持ちが付いていかないのに、イエスに褒められたやもめのように、苦しくても出すんだ! なんて絶対真似しないで。さぁ。

 最後に、もう一度豊かさの定義を言う。



●あなたが持っているものすべてを

(富、時間、能力などお金に限らずすべてにおいて)

 今ここの目の前のことに対して、またあなたが絶対「ゆずれない」何かのために

 どれだけ高いパーセンテージで惜しまず注ぎ込めるか

 そうすることをどれだけ自分に許可できるか

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