やもめと裁判官のたとえ① ~Are you ready?~

【やもめと裁判官のたとえ】



 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。



 ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。

 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。

『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』



 それから、主(イエス)は言われた。

「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」



 ルカによる福音書 18章1~8節



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 このたとえ話は、「あきらめず、求め続けよ」と言ってる。

 覚醒者イエスの言葉だが、「求めるな」「執着するな」とは一言も言ってない。

 執着しない(結果を手放す)こと。その上で求めること——

 筆者は、様々な機会にでそう主張してきた。でも、このイエスの言葉には、そういった「執着」に関する警鐘(注意書き)が見当たらない。

 イエスが相手にしたのは、インテリ層や宗教指導者層ではなく主に一般庶民だから、本当に彼が聖書の言葉通りに言っただけなら、誤解される可能性はMaxである。

 文字通り受け取った皆は「欲しい欲しいビーム」を出し、不可能そうでも意地でもあきらめない、という「我慢大会」さえするだろう。

 だって、イエスがお墨付きを出したのだから。あきらめず欲しがれ、と。

 そうすれば、叶うと。



 皆(特に信者)聖書に書いてあることは、一事が万事すべての人にとっての真理だ、と早合点する。イエスの言葉であれば、それは間違いなく万民が聞くべき真理だ、と。

 それが、聖典至上主義者の盲点である。

 注意して、よく本文を読むように。



 ……イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために——

 たとえを話された。



 イエスは、どんなシチュエーションで、誰に語ったとされています?

『弟子たちに』である。弟子たちオンリーが対象の、内輪でなされた話である。

 聖書を読めば、イエスの弟子たちは多少情けなく描写されているが、半ホームレス生活のイエスに、すべてを捨てて従うくらいの腹の括り方をしている。

 言うなれば、永平寺に入門した僧のようなもの。芯の強さと求道の真剣さはある。

 ゆえに、彼らはイエスほどの神意識ではないにしても、ある程度宗教的素地があった。だから、達観して「なるようになる。流れに任せる。執着して欲しがらない」とう素地が多少は確立していた部分もあったろう。

 イエスは、そんな弟子たちに——



●間違っちゃないが、お前ら生きてるか?

 そんないい子ちゃんなことでは、この世界に何をしに来たんだか分からんじゃないかぁ! 喝!かぁぁぁぁぁつ!



 だから、冒頭のイエスの言葉は、どちらかというと「宗教的下地のある、欲しがらない人物に対して、揺さぶるために多少極端に言った」だけなのだ。普段執着はいかんと説教しているが、お前らは大丈夫だからちょっとは欲しがってもいいぞ、と。

 冴えない表情でボーッとしている人に、「もっとシャキッとしろ、シャキッと!」と言うことがあるだろう。この言葉を、明らかにシャキッとしている人に言いますか? 言わないでしょう。

 だからもし、イエスが大勢の群衆を前にしゃべっていたのなら、皆教えなくても 「欲しがる」ことにかけてはプロだから、多少「執着のワナ」の話もしただろう。

弟子には蛇足になるので(そこはクリアしているので)話を省略した。

 ただ、「執着には気をつけろ」系の話は、福音書に具体的には書かれていない。

 イエスは、書いたものを一切残さなかった。

 ゆえに、イエスの話を見聞きした者が、その話(執着手放し系の)が出ても理解できなかったから書かなかったか——

 あるいは、キリスト教の特権階級が「自分たちが上であることを守るため」庶民が自分たちの持つ本来の力に目覚めないよう、弱い者にしておくため、あえて伏せたか、である。



 これと同じで、スピリチュアルの教えを何でもかんでも受け入れないように。

 すべての人に当てはまり、実践すべき教えはない。到達すべき境地もない。

 だから、「今の自分に合っているかどうか」「受け入れて、実践して気が楽か」で判断してほしい。

 例えば、「喜び、ワクワクにフォーカスせよ」というメッセージがあったら——

 それは、今喜びやワクワクが分かっている人向け。

 そういう人が聞いたら、「ホントそうですよね~」となる。

 今、それらが見つけられていない、分からない人が聞くと、いい気がしない。



「どうせ私は、何が喜びかワクワクか分かっていませんよーだ!」



 だから、今の段階でそういう人は、前向き系のメッセージを無視してよろしい。

 もっと、あなたが聞いて安心できる、採用したいと思うものを聞いたらいい。

 皆が支持している教え、エラい人が言ってる教えだから頑張って受け入れなきゃ、実践しなきゃというのは、頑張っているのに申し訳ないが縛り以外の何者でもない。



 さて。ここまで言っておいてなんだが——

 今日の記事で重要なのは、ここからである。(アララ)

 注目したい、イエスの言葉がある。



●しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。 



 キリスト教的には、イエスが救い主としてせっかく再びやってきたとしても——

 地上で、キリスト教の信仰の火がたくさん燃えていなければ、イエス様をがっかりさせてしまいますよ! さぁ、皆さん。伝道しましょう!

 信者的には、そんな感じになるだろうか。

 でも、ここはそんな話ではない。



 人の子が来る=神が来る。

 神が来る=神ではないと思っていた人々が、自分が神であることに気付く=人類規模で気付きが来る。

 気付きの時代(新時代。アセンション)がせっかく来ても、気付かない選択もあり得る。イエスはそこを案じたものと思われる。



「せっかくそういう時代の流れにいるんだから、できたら楽しんでほしいなぁ。

 この世界はゲームだから、どうでもいいんだけど——

 同じゲームするなら、楽しいほいうがいいだろうし。

 どれくらい沢山の人に、今気付いてもらえるかなぁ……」



 この世界は強制的一方通行ではない、『選択ゲーム』だから。

 神である人間を尊重し信じているがゆえに、結果には干渉されない。

 時代に乗るも、乗り損なうも、ゲームの結果に過ぎないから同価値。 

 でも、たかがゲーム、されどゲーム。

 やるなら、面白くやりがいのあるほうがいい。

 だから、イエスは言ったのだ。『信仰が見られるだろうか』と。



 自分が神であり、意識が世界をつくっており——

 神が求めることで、実現していくことを、何人の人(神)が気付いてくれるだろう? (ゲームなんで結果思い通りにいかないこともあるが、それすらも最善としていく中で、自分の想像を超える奇跡が起こる、ということも)



 これは、イエスからの今を生きる人々へのメッセージである。



●Are you ready?



 お前ら、新時代を恩恵を存分に受ける準備はOKかい?

 その問いかけに対して、こう答えよう。

 もちろん、そのアンサーは……



 Yeah!



 皆が、そのイエスの呼びかけに応えるなら——

 この世界は『学園天国』ならぬ『地球天国』になる。

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