神の国はどこにある② ~答えはあなたの中に~

 神の国はいつ来るのか、と尋ねられたので、イエスは答えて言われた。

 神の国は、見られるかたちで来るものではない。

 また『見よ、ここにある』 『あそこにある』 などとも言えない。

 神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。



 ルカによる福音書 17章20~21節



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 筆者が相談や質問を受ける時に、よく出くわす言葉。

 


 ~すればいいんですね?



 この世界では、ごく普通に使われる。

 この言葉を使うことに問題意識をいちいち持つ人は、ほぼいない。

 他者に相談事をして、何かしらのアドバイスがなされた時によく使われる。

 本人は、確認の意味で言っているのだろう。軽い気持ちで。しかし、この言葉の裏に無意識に隠されたあるメッセージに気付くことは大事である。



 イエスは、天国とは目に見える形でやってくるものだと勘違いしている人に、上記の聖句を言った。

 神の国は、あなたがたのただ中にある(内側。つまり意識にこそある)と。

 これは見方を変えれば、あなた自身が神である、ということ。

 そして、あなたの外側に神の国を求めても、見当違いであるということ。

 あなたが幸せを得るために、外のものをいじっても何もならない。あなた自身の意識を、王であるあなたの権限で変えることでしか、天国は来ないよ。

 


●外が天国になるから、あなたも幸せになれるのではない。

 あなたの意識の在り方が天国のようであるから、その視点から見る世界が天国になるのだ。



 身もフタもない言い方をすれば、『色メガネ』をかけるようなものだ。

 周囲の人には天国に見えなくても、そのメガネをかけたあなたには天国に見える。

 サギだと思いますか? そんな天国って。

 でも、やっぱりそういうものなのだ。

 スピリチュアル・メッセンジャーや宗教家が提供するのは、とどのつまり「視点の変化」へのいざないでしかない。

 もちろん、直接会えばそこには「波動」という要素が濃く加わる。



 天国が、神であるあなたの内側にあるのなら。

 あなたの中に、もともと宇宙のすべてが包含されており、答えはすべてそこにあるのだとしたら。あなたは、究極的な意味では他者を自分より上に置く必要がゼロということになる。

 はっきり言うが、他者は何も知らない。

 あなたに関することは、あなただけが一番よく知っている。

 てか、あなた以外にあなたを誰も知らない。



 しかし、今までのこの世ゲームの展開が下手っぴいだったので、人類に変なクセがついた。

 自分以外に、自分より偉大な「神」がいるとしてしまったこと。

 そして、自分など大したことはなくて、自分よりもっと頭の良い、能力があり人格的にも上な他者がいる、という位置づけ上の大勘違い。

 だから、少しでもマシな自分になりたい、と思い自己啓発本を読む。

 色んな有識者や時の人の講演会に足を運ぶ。セッションを受ける。



 本を読んで、何かこうすればいいというススメが書いてあった時、こう思う。

 そうか こうすれば、求めるものが得られるんだよな?

 指導者から何か言われた時に

 じゃあ私はこれから、そのようにすればいい、ということですね?



 ブー!



 これは、あなたが神であるということへの最大の侮辱。

 あなたの「外側」に、真実があるというのを認めることと同じ。

 外の何らかの「方法」に過ぎないことに、神の位置を与えている。

 そしてそれに従うことで、自分の力では得られなかったものを得させてもらえる、と勘違いをしている。

 あなた自身の中にこそ正解はあるのに!

 必要な情報は、あなたの内側からメッセージとしてやってくるのに!

 なぜ、人生の主人公としてのあなたの「こうしたい」よりも、外の情報に価値を置く? なぜ、自分の内側にこそ「神の国」があることを信頼しない? 



 もちろん、宇宙のシナリオとしてー

 他者の教えを通じて、師(グル)のような存在を通して、気付きが起こることはある。現象的には、『他者のおかげ』『誰かに引き上げてもらった』と見えることは、もちろんある。

 でも、それだって究極的には、あなたの魂本体(プレイヤー意識)の自作自演である。何かに気付くという現象を楽しむために、あなたはまず他者を創造する。

 あなたの好きなスピリチュアル・メッセンジャー(マスター)を思い描いてほしい。まさにそれのことだ。

 で、彼ら(彼女ら)の書いた本なり、また講演会や個人セッションなどを通じて、自分の気付きを促す「言葉」をその人物に言わせる。(引き寄せる、生み出すと言ってもいい)

 で、「ああ! 分かりました」となる。



 実は、本当は自分の中に答えはもうあるのだが、この世ゲームを楽しむためにわざわざ「他者」という演劇上の役を配置し、その幻想上の他者から聞いてあたかも「何も知らなかった自分が、それを知った!」というように自作自演する。

 あなたが内側に持ちえない情報を初めて知る、ということはまぼろしで、実際にはあり得ない。あなたはすべてをもともと知ってる。ただ知らないフリをして、さらに知ったフリをして楽しんでいるだけだ。



●この世界では、誰もが皆『気付きごっこ』をしている。

 本当は全部知っているのに、内にあるのに——

 知らないことにして、追いかけて遊んでいる。 



 他者から聞いて何かが分かる、ということすらも、究極にはあなたが創造した。

 だから、そのこと自体は別に問題ではない。

 ただ、ひとつのことは気を付けていただきたい。



●あ、それイタダキ!とか。

 あ、それ面白そう。やりたい!とか。

 そういうあなた主体の意思、コミットメントをもってほしい。

 あくまでもあなたが選ぶ、という主人公のスタイルを崩さず——

 他者の教えなり、アドバイスなりを受け入れてほしい。



 ~すればいいんですね? という言葉は「等価交換」の精神を体現している。

 それすれば、これ得られるんですよね?

 つまり、「言われた通りにする」という代価を払うから、引き換えに必ず「成果」をくれないと困りますよ。本当に大丈夫なんでしょうね?

 そんな貧乏根性であり、何も得をしなかったらどうしよう、という不安・恐怖のせいで、こんな言葉になる。豊穣の世界からほど遠い上に、あなたが宇宙の中心になってもいない。だって、その方法のおかげでないと、あなたは何も得られない、ということになっているのだから。



●いくら売れている本・人気のある本に書いている法則だろうが。

 いくらそれを実践して成功した、沢山の成功者の感謝の声があろうと。

 あなたがあくまでも選択の主体として、心からそれをしたい! と思うのでなけば、例え気が乗らないのに「これさえやればこうなるらしい」と頑張っても、何の意味もない。



 今まで、数多くの人が自己啓発本を読んでも、成功の法則の本を読んでも変われなかった原因は、まさにここにある。そこに書かれてある事を、成功や幸せを得るための「手段」としてのみ捉え、自身のコミットメントやワクワクなどの要素は二の次にして、ただ「ああ、これやればこうなれるんだ!」という得をしたい思いだけで半ば機械的にやるのだ。

 これでは、あなたは「得られる何か」の奴隷である。

 偉い他者の言った「教え」の手下である。



 もちろん、魂の旅路の途中として、外に「自分より偉大な人物」をもつのはいいことだ。でも、いつまでもおしめが取れないままでは困る。おしゃぶりを離さないようでは困る。

 いつかは、ひとり立ちするべきなのだ。

 自分をこそ神として、他者に何かを聞くことはあるにせよ、究極的に答えはすべて自分の中にあり、私のしていることはあくまでも『答え合わせ』でしかない、ということを意識の片隅にでも置いていただきたい。

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