僕なんで、当然のことをしただけです ~メイド道~

 イエスの弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。



①「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』 と言っても、言うことを聞くであろう。」



② 「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかするしもべがいる場合、そのしもべが畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。

 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」



【ルカによる福音書 17章5~10節】



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 今日の話は、どちらかというと玄人向けである。

 今紹介した聖書の文章でも、イエスに質問しているのは弟子たちである。

 ということは、当時家族も仕事も立場も捨て、放浪一筋のイエス旅団に献身したやつらである。

 そこまでの覚悟をもって参加した群れ。その者達が、師に「どうしたら信仰が増すか(どうしたら飛躍的なスピリチュアル的成長ができるか)」と問うている。

 イエスも当然、一般民衆向けに語るのとは少々違う、発展的なことも言う。

 受け止める器はあるだろう、と信頼して。



 イエスは、弟子たちにふたつ大事なことを語った。

 実はこのふたつ、ふたつというより「ひとつ」である。

 ①と②のふたつで、ひとセットなのである。切っても切り離せない。

 言い換えると、①だけ守って②をおろそかにすれば、すべて意味なしということである。また、①をせずに②だけ、という状況もない。①が生じない限り、②の必要がないから。



 さて、①は端的に「引き寄せ」の実践を言っている。

 キリスト教的世界観になぞらえて、「信仰」という言い方をしているが、言葉を置き換えたら「ビリーフ」、つまり心の中にもつ世界の認識の前提、である。ここがベースメントとなってその人物の人生現象が展開していくので、外をあれこれ憂慮する前にこちらに対処せよ、と。

 起きるわけがない、と思っていることが起きることはまぁない。

(このことは、その人物にとって「良いこと」に限定される傾向がある。悪いことは、起きるわけがないと思っても起きることがある)

 まず、内側で信じろ、と。内なる本気度の高い願望が、それが無理くり思おうとするのでもなく自然に、そして強く在ることの「確認」作業であるとも言える。



 まぁ、とりあえずはこれで引き寄せ自体には成功できる。

 実は、ただ成功という事実を作るだけなら、①だけでいい。

 しかし、イエスは引き寄せの宣伝マンではない。むしろ、イエスはそこに興味はさほどなかった。

 イエスが弟子に聞かれたのは 「信仰を増す方法」だった。まだ発展途上の者に対して与えた助言であり、マスターであるイエスには、もうその必要がなかった。

 イエスはあくまでも、ただの成功哲学を伝授したのではなく「奥深い内なる安息」、深いスピリチュアリティを教えようとしていた。だからこそ、①だけで終わらず②も伝えた。

 ②は、馬の手綱である。暴走のストッパーであり、速度出し過ぎのリミッター的役割を果たす。

 ①はアクセル、②はブレーキ。どちらが欠けても、車(人生)はバランスを欠く。



 ②は、サーバント精神のことを言っている。

 人はすべからく「仕える者・しもべ」であるとイエスは示している。

 執事魂とか、召使い道と言ってもいいのだが、ここでは萌えたいので「メイド道」と表現しよう。

 もちろん、この現実世界ではお金持ちとかご主人様と呼ばれるような、他人に仕えられるような立場の人間もいるが、それは平面的な人間界の関係性上のことで、大きな視点からは人間すべて「仕える者」である。

 生まれる場所も両親も性別も外見も性格も特性も、青写真のものを踏襲していく。

 その後人生において選択がゆるされる範囲は生じるが、「決まっている」部分からすると微々たるもの。

 そういう 「自我意思ではどうにもならなかった自分を取り巻く環境や自分というキャラクターの設定を、受け入れて人生を進めていく」というそのことがすでに、宇宙に『仕えている』。

 自我が決めたのではない出生時の状況や自分キャラのボディ設定などを、「はいご主人様」と言って当たり前として生きていく。そこに文句を言うと人生が辛いものとなり、究極に反逆すると「こんなのやってられるか!」と奉仕のメイド業を放棄する「自殺」となる。

 いい悪いではなく、ただゲームルール上のゲームオーバに過ぎない。たかがゲームとはいえ、そこの世界に入り込んでいるのだから、それはオススメできない。



 あなたは、宇宙シナリオに沿って、演技をしている。

 脚本は決まっているが、演じるあなたの心理状況やコンディションによっては、名演技となるかもしれないし「くさい芝居」となるかもしれない。

 イエスが指摘したのは、「キラッと光る名役者」となるための心得である。

 ①だけなら、心の弱い人や虚栄心の強い人は、「自分の手柄として自慢する」。

 もちろん、人間の社会人ならある程度の社会性が備わっているので、露骨なものはあまり観察できない。でも、よくよく見れば 「フツーに見えて、謙虚に見えて、中身は真逆」な者も多い。

 私は、この話の流れで新たな造語を作ることにする。



●自己慢足



 ……略して 「自慢」。

 一般人が露骨にやると嫌われるが、公認で堂々とそれがゆるされるのが「有名人」という人種である。

 こんなすごいことが起きました! こんな成功をしました! すごくないですか?

 かえってそれをする方が、人気アップには良いようである。

 彼らの立場の怖いところは、公認でそういうことができてしまう点。

(逆にそれが求められている世界もある。アンチは腹立つだけだが、ファンはその成功した有名人と自分を同一化できるので、自分のことのように気持ちがいい。すごいですね!と無邪気に喜べる)

 例えるなら、周りから持ち上げられて、「イッキ飲み」を気前よくやってみせるようなものである。

 あなたのアルコール耐性度が高ければ命は助かるが、そうでないと……



 世の成功哲学は、①のみにスポットを当てて、手を変え品を変え説明しているに過ぎない。②まで言及しているのは少ない。

 まるで、宝くじが当たると幸せ!という情報ばかりで、当たってからどうすれば幸せなままでいられるのか、どういう心構えでないと呑み込まれるかという情報は少ない。どちらかというとそっちのほうが重要なのに!

 スピリチュアル的に深まると、②の観点が生じる。

 つまり、『メイド道』に足を踏み入れるのである。



 それまでは、「自分大好き! 自分ってスゴイ! 私は神!」って舞い上がっていた段階。

 それだって、ひとつのイニシエーション(通過儀礼)であり、誰しもが通るもの。決して悪いことではない。ただ、すぐに次へ行けるのか、だらだらグズグズそこに居座り続けるのが、が問われるのみ。

 自分が神だという高揚感、ある種の万能感を突き抜けたら、真逆の「仕える」段階へ移行。

 だからイエスは、口を開けば「この世界で偉大になりたければ、仕える者となりなさい」と言ったのだ。逆説的だが、洗練された一流の「仕える者」こそが頂点なのである。

 


 私は引き寄せに興味がないが、好きな者も多いので今日の記事を書いてみた。

 関心を持って実践するなら、気を付けなさいな、ということである。結果どんなすごいものを引き寄せても、こういう心境でいれたら見上げたものである。



●わたしどもは取るに足りない僕です。

 しなければならないことをしただけです。

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