難解な、不正な管理人のたとえ ~友達大事にせい! でいいんじゃない?~

【不正な管理人のたとえ】



 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。


 

 ある金持ちに一人の管理人がいた。

 この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。

 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。

『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』

 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』

 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。

 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。

 そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。



 ルカによる福音書 16章1~8節



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 この部分も、一見不可解な部分である。

 クリスチャンたちにも、よく分からない箇所である。牧師たちも色々言うだろうが、多分弁解めいた苦し紛れなことしか言わないだろう。

 なぜなら、「聖書は正しい」「イエスが間違ったことを言うはずがない」というこの二点は不動のものとして考えるからだ。前提条件は絶対に譲らないからだ。

 これは、脇に赤ん坊を大事に抱えながら片手でケンカをするようなもので、大いなるハンデである。そんな手かせ足かせを、自分ではめながら読んでいるので、キリスト信仰にはまれば発想が貧困になる。

 この箇所は、倫理や道徳を前提に考えたら、読み解けない。

 だって、不正なことをしてでも友達を作れっていう薦めでしょ?

 真面目な信仰者なら、「たとえ飢えて死ぬことになっても、神の前に恥じるような行為はしてはいけない。それならば、神をほめたたえながらでも死ぬべきだ。イエスも、神のご意志に背いてでも生きながらえることを選ばず、死しても神のご意志に添うことを選ばれたではないか」 くらいは思うはず。

 イエス様が、不正をしてでも生きるために友達を作れ、などとは言わないはずだ、とも考えるはず。



 実は、このお話にはもっと続きがある。

 でも私は、このお話を区切りのいい最後の部分まで引用しなかった。

 なぜか。

 色々な人物の、色々な意図がぐちゃまぜになっているからだ。

 皆、この聖書という書物を一貫した神の言葉だという前提で読む。

 一人の作者が最初から最後まで書いていると勘違いしている。

 だから混乱する。でもなお何とか好意的に解釈しようとして、結果苦しいこじつけ論になる。

 実は、後半部分は一緒に読まないほうがいいから引用しなかった。

 興味のある人は聖書引っ張ってきて読んだらいい。まず間違いなく混乱するから。

『二人の主人に兼ね仕えることはできない』という、このたとえ話の主旨とは関係のないメッセージに無理やりこじつけようとしているからだ。もちろん、たとえ話を書いた人物と、後半解釈した人物とは別人である。これも、イエスのもとの話を、教会(キリスト教)に都合のいいように解釈し、確信犯的にそれをイエス自身の言葉としてしまった。



 では、以下筆者流解釈。

 このお話は、色々な装飾的部分に惑わされてはダメだ。

 深読みしてはダメだ。めっちゃシンプルに読めばいい。なぁんだ、そんなこと! ってなくらいシンプルに。

 つまり——



●友達は大事だ。



 たった、それだけ。

 何よりも、友達を大事にしろ、っていうこと。

 イエスが本当に言いたいのは、自分の教えの言葉とか信仰とか、そんなもんどうでもいいから、友達大事にしな、ってこと。友達ほど大事なものはなく、その価値の前には何かの信念や教えの類を貫き通すことなど大した価値はないよ、ということ。

 だからイエスは、ちょっと極端ではあるが「不正してでも友達をつくれ」と言った。不正を奨励するというより、それぐらい友達は大事だと言うことが強調したいわけだ。



 この世界に、そもそも何をしに来た?

 ワンネス、つまり「たったひとつの存在意識」がわざわざ分離という幻想に飛び込んだわけは? 自他という、本来は『ない』夢を見ようとしたのは、なぜ?

 それを味わい、楽しむため。



※ここで言う楽しむ、という意味は楽しいことだけではなく、苦しいことも含めすべてを楽しむという、少々不謹慎な表現になる。ゆえに我々人間キャラの願いや思う所とはかなりズレる。そのズレを我々は「理不尽」という言葉で呼ぶが、このズレはいかんともしがたいため、皆自分の基準でものを考える限り苦しみはなくならない。



 たったひとつの存在意識は、「ひとつ」という真実では「楽しめなかった」から真実を忘れ、自他という「ウソ」の幻想世界を作ってでも、楽しもうとした。

「他」というのは、神(空)にとっては、何よりも大事なのだ。

 他との関係というものこそが、神が完全性を捨てででも欲しがったもの。



●友達は、真理よりも大事である。

 友達は、信仰よりも大事である。

 友達は、悟りよりも大事である。

 もし、悟ったが孤独だと言う人がいるなら。

 友達のほぼいない覚者というものがいたなら——

 友達の多い凡夫(普通人、の意)の方が幸せである。

 むしろ、人としては彼の方が孤独な覚者より上である。



 イエスは、真理とか覚醒とか追いすぎて、友達減らしなさんなよ、というベタな注意をしただけ。

 道を極めようとする者……特に宗教がかった分野、哲学がかった分野でそれは顕著だ。有名になったり世間受けしたらいいが、そうでないと覚者なんてただの偏屈な人間である。またはその逆で、ホンネできれいごとしか言わないので、少しはブレろよ、と思ってしまうくらい鼻につく「いい人」かのどちらかになる。

 皆が好意的に接するから良く見えるだけで、そうでないと覚者と言われている人なんて、付き合いづらいやつらである。下手に人気者にしてしまうと皆無条件に慕うので、そこのところが見えにくい。

 スピリチュアルや宗教に熱心だと、結構足元をすくわれやすい。

 そういうのをやっている人が、かえって人間関係下手だったり。

 一般人より宗教やってる人やスピリチュアルやっている人のほうが友達が少なかったり、かえって人間的評価が一般人の方が高かったり、という皮肉な現象さえある。



 どんなことよりも、友達大事にしろ。

 この自他という関係性の幻想を味わい楽しむためには、「他」の代表と言える「トモダチ」 以上に大事なものなんてない。世間でいう「悟り」なんかよりも、友達の方が大事である。

 その、フツーの感覚を、スピリチュアル実践者は忘れ去っている。

 筆者が活動できているのは、私が「悟ったから」ではないと思っている。本書を読んでくれ、私の話を聞きたいと言ってくれ、色々に骨を折ってくれたりあする損得の利害を超えた『トモダチ』のおかげである。

 全国にできたそういう友達の存在なくして、今の私は在り得ない。

 友達のことを思う時、他人はいないとかそれも自分が創っているとか、そういうどうでもいい議論は私から失せ去る。感謝の念が湧く時、そういったスピリチュアル知識は野暮である。

 私も、イエスと同じようにこう言ってみたい。



「悟りとか信仰なんかよりも、トモダチ大事にしな!」

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