99匹と1匹の羊のたとえ ~99>1という損得勘定の壁~

 あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』 と言うであろう。

 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。



 ルカによる福音書 15章4~7節



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 神の愛を説明するための有名な、イエスのたとえ話である。

 言いたいことは分かるにしても、引っ掛かりを感じる方も多いのではないか。

 だって、見失った1匹を探している間、99匹は放っておかれるわけである。

 狼に襲われるかもしれない。


 

 99匹よりも1匹が大事なのか?

 99匹と1匹を同じに考えるのか?



 等価交換や損得勘定を考える我々には——

「少数を犠牲にしても大多数を救う方を選ぶ」

 ……という考えが常識的だろう。

 小学生程度の算数ができる方なら、99と1ではどちらがより大きいか、明らかだ。

 どう考えても、99匹の方が大事である。

 聖書のこの物語を読んで、こう思った方もいるだろう。



 1匹を必死に探している間、99匹は野原に残しているわけでしょ?

 その間に99匹に何かあったら、どうするの?

 狼に襲われるかもしれない。

 そうなったら、大損害じゃない。

 それなら、手堅く99匹の安全を先に確保して、1匹は後で探すしかないと思う。それで見つからなきゃ、もう仕方がないでしょ。



 私たちは、現在過去未来という、「幻想上の時間軸」でものを考えてしまう。

 だから、1匹を探しに行った結果、という起こってもいない勝手な「未来」を想像する。で、その幻想でしかない予想に、恐れを抱く。

(この場合、1匹を探している間に99匹は大丈夫か……?という)

 この場合、何が一番大事かと言うと——



●今ここにおいて、あなたがどうしたいか。



 たった、それだけなのである。

 今、その1匹があなたにとって大切で、どうしても探しに行きたい! 放っておけない! そう思うのなら、「今ここ」のあなたの思いを、情熱を最優先すべきだ。

「地に足の着いた」と称する人々は、その情熱に冷水を浴びせる。

 99匹に何かあったらどうする? という幻想上の恐怖である。

 もちろん、今「あなたがどうしたいか」が大事だと言った以上、本気で「99匹の安全が優先だ」と思ったら、全然それで問題ないわけである。

 でも、仮に99匹を優先するのは本望ではなく、心の中では泣いている、というのであれば。それなのに、現実の損得においてこれ以上「損をしない」とを優先させるのだとすれば、「ちょっと待った!」である。




「今ここ」の現実しか、本当でないとすれば。

 ひとつ、思い切って言えることがある。



●今という瞬間にあなたの心の中を占める事柄こそが、世界の代表である。

 あなたが気にかかる一番の関心こそが、世界のすべてと同価値である。



 私たちはどうしても、数の大小、という比較、相対概念で考えてしまう。

 だから、物事の決断においてはエゴからくる思考、というお呼びでない者が幅を利かせてしまう。

 皆さんは、折々それを許してしまっているのである。大した抵抗もなく。

 99匹と1匹では、99匹のほうがどう考えたって大事でしょ? という発想もその表れである。今ここ、という見地に立って落ち着いて考えてほしい。



 今この瞬間大事なのは、あなたの心を占めている重大事は——

 いなくなった、その大事な1匹でしょ?

 99匹のことじゃないでしょ?

 だったら、今その1匹に向き合うことは、世界と向き合うことと同じ。もちろんそこに、99匹も含まれる。

 あなたが向き合っているのは、どんなときでも宇宙全体。

 あなたの目の前の人やモノ、その時々のものが常に「宇宙代表」 。

 そのつもりで接すればいい。

 それができたら、「今ここ」とは直接関係のないことまでひっぱり出してきて比べたり、損得を計算して怖がったりするようなことはない。



 ちょいと乱暴な言い方をすれば、今ここで99匹は重要じゃないのだ。

 今まさに重要なのは、はぐれた1匹なのだ。

 宇宙の王として、今一番大事なものを優先できたら、それすなわち「宇宙の全部を大事にした」ことと同義になるのだ。なぜなら、その1匹は宇宙全体の象徴だから。

 それが分からない我々は、どうしても今この瞬間に考えなくてよい色々なデータを頭に思いめぐらせ、あーでもないこーでもない、と思考する。

 心のどっかでは「本当はこうしたい」が分かっているのに、あえてそこから目を背けるための、自分のしたいことをあきらめさせる理由探しに必死になっているという、哀れな人の姿なのである。

 そうやって人は、必死に「自分がこうしたいのにできない」納得のいく根拠を見つけては、自分を慰めているのである。



 宇宙に対する信頼が足りないのだ。

 自分には、色々なものが不足している。

 お金、地位、人間関係。食べ物、車、異性。

 この世界は危険と恐怖で満ちている。物騒な世の中。

 人を見たら、泥棒と思え。警戒を怠るな。賢く立ち回り。損害を被るのを回避せよ。そんな前提で、ギスギス生きていませんか?

 宇宙が信頼できないのに、「宇宙にゆだねる、降参する」ことなどできない。

 先ほどの話の場合、本当に宇宙を信頼したら、99匹のことは宇宙に信頼して任せられる。宇宙が、いなくなった1匹がどうしても気になり、あきらめきれないというシナリオを提供してくれたのだとしたら? それは、今「1匹を探しなさい」という宇宙からの奨励なのではないか?

 そしてこうも言ってくれている。「今、あなたにとってその1匹を探すことが何よりも大事なんだったら、他の事は心配しないでおいて。私が責任を持って面倒を見るから」



『シンドラーのリスト』 という映画のキャッチコピーが、これだった。



●たった一人の命を救う者が、世界を救う



 当時、??と思ったものだった。

 説明できない、感情的な領域ではこの言葉に反対ではなかった。

 でも、論理的合理的思考が叫んでいた。

 ひとりはひとりに過ぎないだろ? どれだけ助けられたか、という数も重要だろ?

 でも、今なら確信を持って言える。



 今、あなたがあるひとりと向き合っているなら——

 今、外にいる無数の人のことは考えなくていい。

 目の前にいるのが、今あなたにとっての世界中であり、宇宙全体。

 だから、余計なことは考えず、存分に向き合いなさい。

 それが、世界全てを変えることに繋がるのだから。 

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