トリセツ ~したいようにする、を推奨する現代スピリチュアルの問題点~
あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』 と言うだろう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
ルカによる福音書 14章28~32節
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西野カナという歌手の 『トリセツ』という歌にこういう歌詞があった。
もしも少し古くなってきて目移りするときは
ふたりが初めて出会ったあの日を思い出してね
一夫一妻制については、スピリチュアルという分野でも色々議論がある。
キリスト教などは、絶賛オススメであり、逆にこれ以外を「罪」とさえする。
ヘンな話なのだ。旧約聖書とかでは、一夫多妻制がフツーな時代があったりする。聖書の中の、尊敬されている英雄的扱いの登場人物も、多妻であったりする。
まぁ、その時代時代に合ったもの、出るべくして登場するもの、時代の流れの中で引っ込むべくして引っ込むもの、というものがあるんだろう。
だから、時と場所によって相対的に変化する決め事に過ぎないのが一夫一妻制であり、それが宇宙で最も良い在り方などではない。ましてや真理などでもないし、そうしないと罪や悪になるなどということはない。
離婚問題やその他、様々な根拠をもって一夫一妻制の限界は囁かれている。
最初は燃え上がるような恋でも、ある程度たてば人によっては「惰性」の運行となる。経済状態のための契約継続、という面もあるだろう。子育て、という共通の目的をもつ「同志」のような感じになる人もいるかもしれない。
もちろん、何年経っても仲の良い夫婦というのはある。でもそれだって、私たちは他人の事に関しては自分の目がなぞった範囲しか分からない。外からは仲良く見える夫婦でも、本当のところなど分かりっこない。
『うる星やつら』というアニメの主題歌「ラムのラブソング」という歌にもうまく表現されている。
ああ 男の人って
いくつも 愛を持っているのね
特に最近のスピリチュアルの流れとしては、「無理をしない」「したいようにする」「自分の気持ちに正直になる」「我慢や義務、犠牲などの呪縛から解放される」 「ありのままの自分を認める」というキーワードが示す通り、「離婚」という二文字がそれほど悪く言われないようになった。
だって、無理をすることはないんだから。自分のその時の気持ちにウソをつくのはよくない。表面的に平和を維持するために、自分を犠牲にするなんてダメだよ——。
そういう理由づけをもって、離婚は「失敗と言うよりも、人生の選択肢のひとつ」というくらいにそのイメージが悪くなくなった。私としても、離婚そのものは良いとか悪いとか、そういう一刀両断では決められないと思っている。もちろん、人生シナリオにおいて、仕方ないものは仕方がない。
ただ、私はちょっと従来のスピリチュアル的概念からは「逆行している」と言われかねないことを思う。
以下は、真理でもススメでもなく、ただの私一個人の思いである。
●最後まで貫けよ。
初心を貫徹する、ということがある。
美空ひばりの歌「人生一路」にも、一度決めたら二度とは変えぬ、という歌詞がある。それを男女関係に当てはめたら、一度決めた相手とは添い遂げろ、ということになる。(一夫一妻制でないといけなくはなく、複数でも一度結婚したら最後まで面倒見ろ、ということ)
もちろん、相手がこちらと別れたがってきた場合や、どうしようもない事態においては仕方がない。死別なども、仕方がない。残りの人生長いなら、再婚ももちろんあっていい。
確かに、今の時代に合わない、古臭い意見と言われるかもしれない。
「昭和臭」さえ漂ってきそうだ。(明治・大正臭とまで言われたりして)
最近のスピリチュアルの流れでも、そのへんは妙にフリーな考え方になってきている。私が離婚という現象に物申したいのは、離婚自体がいけないとか、子どもが可哀想とか、そういう切り口で責めたいのではない。ただ——
●ツメが甘い。ワキが甘い。
読みが甘い。
これは、認めないといけませんよ。
自分が幸せになるために、それに障害になることは手放してOK! 当然、離婚によってその人が幸せに向かって行けるならOK! いくらそんな擁護理屈を並べたてたところで、あなたは結局「失敗」したのだ。一度始めたことを、完結できなかったのだ。半端者になったのだ。
私は、そこを厳しく問いたい。
もちろん、万が一自分がそうなったら、私は自分にも厳しくするだろう。
イエス・キリストの冒頭の言葉を思い出していただきたい。
塔を建てると公言して、建てられなかったら? バカにされるだろう。そうならないためにも、最初に費用とか期間とか必要な労力などを計算するのである。で、いける! となって乗り出す。
戦争も、相手に勝てる公算がなかったら手を出すべきではない。信長の桶狭間や、源義経の奇策など、少数の兵力で大軍を打ち負かす話もあるが、それだって「勝てる」という根拠があるからこそのものであり、決して「無謀」ではない。
私が以前、道端ジェシカさんの離婚について記事を書いたのは、決して離婚がよくないという単純な批判ではなく、こういうことが言いたかった。
本を出し、有名人として大勢のスピリチュアル的指針となるような人物が——
そんな計算もできなかったの? そんな豪快な読み間違いをしたの?
公人には、甘えは通用しない。離婚なんて別にいーじゃん、というのは一般人にはよくても、大勢の信頼を背負う立場にあった人物が軽々しく犯せるミスではない。
もちろん、大きな視点からは、ミスなどというものは誰の人生にもない。皆、それぞれ全力で生きていることは分かっている。でも、今私は「この世ゲーム」の話をしている。そこには価値判断があり、ルール上の勝ち負けや成否、成功や失敗がある。
この世界では、相対的価値判断が有効なのだ。それでいくと、スピリチュアルで大金を稼ぐ人間が、たった1年すらも結婚という名の契約を守れない、というのはダメだ。どうしたって言い逃れできない。
ワキが甘い人間は、指導者に向かない。有名にならない方がいい。
かつて激しいバッシングにさらされたベッキーなどは、本来ワキが甘くないタイプの人間が、長年全力疾走しているうちにどうしてもできてしまった「ほころび」にやられた。しっかりした者でも、そういう運命のいたずらのようなものに翻弄される。
そう考えると、万全な態勢で臨んでさえ何があるか分からないのが、「大勢の人気を得る(一見)華やかな世界」 だと言える。そんなものに、「オレはビッグになりたい」 程度の思いで挑戦していくなど、論外である。
西野カナの「トリセツ」に話を戻そう。
歌の歌詞の主は、愛する男が 「自分が古くなって別に目移りする」ことを心配している。
そんな時は、出会った頃を思い出してね、と言う。つまりは、原点に立ちかえれ、初心を思い出せ、あの頃熱く想い合ったことを思いだせと。
これは、聞きようによると一種の「脅迫」に聞こえなくもない。相手を、自分につなぎとめておくための。言われたほうにしても、それを担保に取られて「関係の継続」を要求されているようにも。
もちろん、歌の歌詞はあくまでも「心から相手を思うその気持から」言っているはずなので、あくまでも「被害妄想的に考えて」のことでしかないが。
私が個人的に結婚に見出している価値というのは、「今ここ」において心から相手が一番に思え、満足しきっているかどうか、ということに置いていない。もしそうなら、人によってはその基準に従った結果、「目移りする」ということにもなる。
正直に申し上げて、筆者が今の奥さんと出会ったその時のままの、同じエネルギー量と質と同じ基準で現在も好きかと言うと、違う。明らかに違う。
でも、心の根底にあるものは変わっていない。その底の上に滞積する、プラスアルファ分に変動があった、ということに過ぎない。だから、私の中で(向こうから別れようと言われない限り) 離婚はない。
諸行無常のこの世界で、同じであり続けるものはない。
男女関係やそこに生じる情熱もまた、然り。
だからこそ改めて、「好き」と「愛」ってどう違うか、を考えてみる必要がある。
何かゆずれない、絶対に守りたいものを守るために、自分が望みのままに振る舞ったらそれを守れなくなる事項に関してあきらめる・控えることが 「愛」。
あくまでもその瞬間の心地よさにこだわり、たとえ過去に一番大事な契りを結んでも、その重みを忘れて「今の自分の幸せ」を重視するために我慢しない(解消できる)のが 「好き」。
こう言うと、一定数の人は反発するかもしれない。
今のスピリチュアルの流れで皆、我慢とか犠牲ということには過剰に反発する。その弊害で、昔チックな倫理・道徳観を「古臭い」とし、自分の気持ちに正直に・無理して自分をいじめないという言葉を隠れ蓑に、安きに逃げる離婚希望者が増えた。
あえて言うけど、無責任なスピリチュアルに呑まれてんじゃねぇぞ。
スピリチュアルの口車に乗って、自分のしたいようにするな。この「結婚」というものをした後は。
根性見せろ。不安だったら、最初からするな。軽く見るな。
私は、「出会った最初の頃を思い出す」ことをしてでも、愛し抜いてほしい。
時代遅れと言われようが、一度誓った愛の言葉は取り下げないでほしい。
もちろん、あなたが全力でも相手の方の意志や変化もあるから、仕方ない時は仕方ない。でも、あなたから投げないでほしいのである。
私は、何時でも「自分の気持ちを大切に」とか言って、無理に結婚を継続している必要などないといって離婚への抵抗感が薄れることには危機感を持っている。
自ら離婚する人は(相手が継続を望んでいるのに、である。ただしDVや家庭を崩壊させかねない行為を相手がやめられない場合を除く)、自分を大切にしているかもしれないが、相手を大切にはできていない。
なぜなら、そうなることを出発時に計算できず、リタイヤしたからだ。
本当に相手を大切にするということは、キリストの言うように「最初に、ちゃんとできるかを十分計算し、事に当たる」ことである。
西野カナの歌の歌詞は、決して男を離さないために釘を刺しているのではなく、心からの素直な「お願い」である。妻を持つ紳士諸君に、そのお願いに耳を傾け続けることをお願いする。
愛とは、常に心地よくないといけない、と誰が決めたのか。
何かを守るために、ある日の決意と情熱を完結させるために継続する努力も、また愛ではないか。
それを、我慢とか犠牲とか無理しなくていい、という言葉でごまかすな。
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