対価も払わず良いものを受け取ろうなんて泥棒 ~奇跡はただ待つだけでは起きない~

 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。  

 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。



 ルカによる福音書 14章28~33節



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 聖書にあるイエスの言葉であるが、別に信者じゃなくても、個人的に聖書を勉強した人でなくても、意味は汲み取れるだろう。至極当たり前のことを言ってる、ということは分かるだろうか。

 これはどういう状況で言われた言葉かというと、イエスに大勢の群集が群がって追いかけてくるのだが、イエスはその多くがご利益信仰的な、あるいはアイドルの追っかけ的なミーハーな動機であることを見抜き、言い放った言葉だ。

 私の弟子でありたいというならば、そんな程度の動機ではなることはできないんだけど、そこんとこ夜露死苦ヨロシク



 たとえばであるが、体が大きく太っており、「相撲取りにでもなるかな」と考えた人が相撲部屋の門をたたくと、どういうことになるか。本気で力士となって場所に出るには、血のにじむ練習としごきに耐えねばならない。

 それもやせ我慢ではいけない。夢があるから、相撲が好きだからというのでないと続かない辛さだ。もし、途中で辛さに匙を投げるのなら、それはイエスの今日の言葉の指すことと同じ。

 その人物は、塔をちゃんと建てられるだけの計画と費用、勝算が十分にないままおっぱじめたのだ。

 織田信長の桶狭間の戦いのように、少ない軍勢で大勢を敗れるだけの自信と奇策でもない限り、真正面から小軍で大軍に挑むのは単なる自殺行為である。



 スピリチュアルの世界では、「奇跡」という言葉が好まれる。

 奇跡は起きる。起きるからこその奇跡であり、「起きるわけがない」と思っているから起きない。起きると心から信じれば、起きる。

 でも、ここでひとつ注釈をつけておかないといけない。

 


●信じるだけで、疑わないだけでは奇跡は起きない。

 種まきをしない信心は、何も産まない。


 

 植物の種をまいていないなら、そこにいくら水と肥料をやっても何も生えない。

 水と肥料(栄養) は、ここでは意識において「信じる」「疑わない」「イメージする」ことだと考えてほしい。一部で誤解があるが、ここだけで何かの奇跡が起こると考えている人も少なくない。

 あなたが何かアクションを起こさないと、基本的にこの世界では何も起きない。

 北原白秋作詞、山田耕作作曲の「待ちぼうけ」という歌がある。

 ある百姓が農作業中、そのそばでうさぎが切り株につまづいて、転んで死ぬ。

 何も労せず転がり込んだ獲物に、百姓は喜ぶ。何もしないでも得をしたのだから、まじめに農作業をするのがバカらしくなる。で、次の日から百姓は農業を放り出し、木の切り株をずっと観察して「次のうさぎが転ばないか」を期待し続けた。しかしそんなことは二度と起こらず、畑は荒れ百姓も困窮した。

「意識」という要素だけで奇跡を起こそうとするスピリチュアル実践者は、この百姓と同じである。 



●何かを願うなら、それにふさわしい行動を起こさなければならない。



 奇跡、というものの質を誤解してはいけない。

 歌のそれほどうまくない人が、どれだけ純粋に「ビッグな歌手になれる」と意識レベルで疑わず信じ、日々そうなった自分を完璧にイメージしても、残念であるがこの方が歌手になるという奇跡は起きない。てか、奇跡を誤解している。

 あり得ないことがおこるのが奇跡なのではない。

 望むことを起こせる最低限の資格があってはじめて、その中で頭ひとつ出るという勝ち抜き戦を潜り抜ける挑戦権が手にできる。そこで見事サクセスしてこその「奇跡」なのだ。



 でも、この問題はさらに難しい問題をはらんでいる。

 待ちぼうけの歌にもあるように——



●時として、あなたが行動してないことでもとんでもない幸運が降りかかることがある。



 これがまれにあるから、人は騙される。先ほどの「待ちぼうけ」の農夫が陥った罠と同じである。

 思慮が浅いと、これに味を占めこういうことがまたあるかも、と思って期待する誘惑に駆られる。

 再三言っておくが、意識レベルの操作だけで何かの現実を動かせるというのは、壮大すぎるファンタジーである。

 結果としてそう思える現象も起こるが、それはあなたの認識の世界を超えた次元の要素も、同じ舞台に生きる他者の思いや行動も多分に左右していて、結果的にあなたの意に沿うものになったというだけ。

 その「お蔭様」とも言える現象を、あなたが「自分で引き寄せた」と言うのはちょっと図々しい。



 もちろん、言い方を変えれば 「本気の思いは、自然な行動をも産む」。

 たとえば、本当に芸能人になりたい、役者になりたいと思えば、その強い思いはその人物がオーディションを受けようと思ったり、芸能事務所のタレント募集の要項を取り寄せて、まずは書類を送ってみようという具体的な行動を取らせたりするように働く。

 イエスは、そこを問うているのだ。もし、あなたの弟子になりたいという思いが本物ならば、すべてを捨ててから従ってくることはできるはずだよ。その行動こそが、あなたが私のもとへきても途中で逃げ帰らず、いい線まで行くということの証になるよ。できないなら、その程度の覚悟でついてくるのはやめときなさい。



●200円のものを買うのにあなたが100円しか持っていなかったら、買えないのは当たり前ではないか。そんな当たり前のことを、お金の計算では分かるのに、人生の選択という大事な場面で応用できないのか!? 



 あなたが労せず、種もまかないで体験する奇跡(たなぼた幸運)は、「甘美な毒」 である。本当に甘くおいしいが、あなたがしっかりしていないとそれに溺れる。

 だから、人によってはそういう体験はしないほうが幸せだ、と言えるかもしれない。宝くじで身の丈に合わない金額を手にするのも、それに当たる。少なくない数の宝くじ当選者が、その後不幸に見舞われていることからも分かるだろう。

 私たちは自分たちの願望実現に向かって、できるだけそれが現実に起きやすいように知恵を用い、手を打っていくだけ。そして少しでも願望実現の可能性が高まることをし続けるだけ。そしてやることをやったら、あとは合格発表を待つ受験生のように、信じて待つだけ。だめでも、また来年頑張る。その繰り返し。

 


 願望実現系のスピリチュアルや自己啓発でも、良心的なものは「行動」についてもスポットを当てている。ただ意識レベルで信じりゃ済む、という乱暴な話にはしていないだろう。

 だからあなたは、あなたの意識が、思いが「しんどいことや苦労もいとわない行動すら生まれるほどであるか」をチェックしたらいい。もし、OKなら、とことん突き進んでほしいし、そこまででないならあなたは200円のものを買うのに100円しかないのが現状、ってこと。

 その現実を謙虚に受け入れ、あきらめず機が熟するのを(200円がたまるのを)待つか、別の願望を探す(100円で今買えるものを探す)かである。



 イエスは、死人を生き返らせるとか障がいを治すとかいう「あり得ない」ことをした人物にしては、至極当たり前の感覚も持ち合わせていた、ということがうかがい知れるエピソードが、今日の聖書のお話である。



●天は、自ら助くる者を助く。

 奇跡は、自ら行動の種をまき、奇跡に頼らず実現しようとする者に起こる。

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