聖書という書物の内容に一貫性などない。むしろ、要らない!

 わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。

 その火が既に燃えていたならと、どんなに願っていることか。

 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。

 そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。

 今から後、ひとつの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、

 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、

 対立して分かれる。



 新約聖書・ルカによる福音書12章49~53節



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 さて、冒頭に紹介したのは、イエス・キリストの言葉である。

 一読して、不思議に思わないだろうか。

 あれ、イエスって地上に平和をもたらすために来たんじゃないの?

 実際、聖書の中にもそういう記述がある。

 例えば、以下のようなもの。



●わたしを信じる者が、誰も暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。

 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。

 わたしは世を裁くためではなく、救うために来たからである。



 【ヨハネによる福音書12章46~49節】



 また、イエスがベツレヘムで誕生された時、天使がこう言っている。



●いと高きところには栄光、神に在れ。

 地には平和、御心のかなう人にあれ。



 【ルカによる福音書2章14節】



 祭司ザカリアという人物は、イエスの誕生に関してこう預言した。



●この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、

 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、

 我らの歩みを平和の道に導く。



 【ルカによる福音書1章78~79節】



 他にも、イエスが平和のために来たという内容の記述は、山ほどある。

 では、冒頭に紹介したイエスが「人々を分裂させ、仲たがいさせるために来た」という表現とは、矛盾することになるのであろうか。イエスは、言うことに一貫性がない愚か者だったのだろうか?

 


 スピリチュアルの世界で、やたら整合性を気にする方がいる。

 あーだったらこー。こーだったら、あー。

 じゃあ、これはどうなるんですか? あれは、どうなるんですか?

 そんな感じの質問が、私に結構な頻度で寄せられる。

 えっと、いちいち相手するの疲れるので、言っちゃいますね。



●整合性など、宗教やスピリチュアルには必要ない。



 理論、論理、整合性、もっと言えば物理や数学などというものは——

 残念ながら宇宙の真理とやらではない。

 それすらも、創造物である。



 地球とか、動植物とかと一緒。

 物質的なものとは別格で、そういうものが存在していたのではない。

 だから、単なる創造物にしかすぎないもので世界(宇宙)を推し量ろうとすると、そりゃ、うまくいきませんわな。

 うまくいかないどころか、まったくの見当違い。

 整合性や論理性、なんてのはこの次元宇宙のおままごとなのだ。

 悪いものだとは言わないが、この世はそれに縛られすぎているきらいがある。

「奇跡」と呼ばれるものがそうそうおきないのは、この前提があるからである。

 皆が、「そんなこと起こるわけがない」と思っているので、その願い通りに起こらない。そういう意味で、奇跡を数多く起こしたと伝えられるイエスは、本当に論理性や整合性、数学性や物理性の縛りから自由であったことがうかがえる。

 整合性や論理性をあれこれ言うということは、この世界の一部しか見ていないということだ。



 過去記事でも触れたことだが——



●スピリチュアルな教えは、頭で聞くものではない。

 腹で(ハートで) 聞くものである。

 もっと言うと、聞くものではなく感じるものである。



 キング・オブ・言いたい放題であり、言葉において究極に自由だったイエスは、矛盾性とか、論理的齟齬など気にしていなかった。言いたいように言った。

 イエスはまた、表面的な一貫性などよりも、「TPOに合わせる」ことを重視した。相手に合わせて言うことを変えるため、それらの言葉を横に並べると「これとこれ、言ってること違うじゃん」となる。

 確かに「わたしは人々を分裂させるために来た」と「私は平和(救い)のために来た」というのは、矛盾しているように聞こえる。

 しかし、これはあくまでも『聞く相手に合わせて表現している』だけのこと。



 あなたは、小学生に対しても大人に対しても、まったく同じように話しますか?

 あなたのことを信頼し、素直に耳を傾けてくれている人物と、あなたのことを疑い、隙あらば揚げ足のひとつでも取ってやろう、と身構えている人に、同じ話し方をしますか?

 相手の年齢、性別、性格、心理状態などを加味して、同じことでも言い方や表現を変えませんか?

 その結果、表面的には矛盾する、整合性が取れない発言が出てきても不思議ではないのでは? 

 だから言うのである。スピリチュアルはハートで聞くものだ、と。

 考えるよりも、感じるものだと。

 あまりにも思考さんに振り回されるくらいなら、スピリチュアルなどやめちゃったらいい。 




●今、という瞬間に発せられたメッセージは、生ものだ。

 賞味期限がその一瞬だけ、という。

 それをあえて記録し、検証し、あの時のあれと今のこれは比較してどうだ、などというあきれた分析をしたところで、大して意味はない。

 


 整合性なぞどうでもよい。

 要は、なぜ今その言葉、その内容が発せられたかなのである。

 それを、時間を超えて普遍性を持たせて考えるから、おかしなことになる。

 今ここに感じたことにのっとった言葉なら、すべて真実である。そこに焦点を当てないで、現れた表面的な論理の妥当性を議論するなど、バカバカしい。



 時と場所によっては正反対にもとれる発言をしているイエスは——

 あらゆる人やモノ、状況に柔軟に対応できる最高の覚者であり、自由人だったのだ。何にも縛られなかった。当時の価値観や常識だけでなく、論理性や整合性にすらも囚われることをゆるさなかった。

 皆さんも、スピリチュアルなメッセージを受け取る時には、論理的な整合性よりも、ハートにビビッと来るかどうか。心が動くかどうかを見てください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る