多く与えられた者からは多く求められる ~多すぎる知識はあなたを縛る~

 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかったしもべは、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。



 ルカによる福音書 12章47~48節



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 さて。

 これまで、多くの人がしてきた勘違いのひとつに、次のような世界観がある。



●この世には絶対的に正しい真理があって、それを探し求めるべきである。



 それは、信じている人にだけ意味があるとか、信じていない人には関係ない、というものではない。だって、宇宙を貫く真理なのだから、影響は免れない。

 だから、その真理を知ったという自覚のある者は、他者に伝えようと努力しだす。

 喜びが動機な場合もあるだろうが、多くは義務感・使命感である。

 何とかして、この真実を皆に伝えなければ。

 でないと、皆大変なことになる——。

 それを率先してやってきたのが、『宗教』である。

 今でも、その活動は盛んではある。



 今日は、本当にそうだろうか、ということを考えてみたい。

 結論から言えば、以下のようなことになる。



●ある知識に関して、それを知っている人にだけ効力を発揮する。

 強く信じている人には、さらにリアリティをもって作用する。

 深刻にとらえないか、または心の中でそれに重要な位置を与えない人には——

 さほど縛りとはならない。



 そのことを、ひとつのたとえ話を通して考えてみよう。



 ある男の子が、家の柱に折り紙で作ったヘンな人形を張り付けて、それを拝んでいる。不思議に思った男の子の父親が、息子に聞く。

「ねぇ。それは何をやってるの?」

 男の子は答える。

「あのね、お父さん。これ、僕のカミサマなの。このカミサマに祈ったらね、今週中に絶対に仮面ライダーの変身ベルトをくれるんだよ!」

 父親は、内心笑う。

 ……何だって? そんなことあるわけがなかろう。まったく、子どもの考えることって、面白いな~

 でも、実際には息子の思いを尊重して、こう言う。

「へ~、そうなんだ! もらえるといいねぇ」



 次の日も、男の子は同じことをしていた。

 父親が問うても、やはり同じ答え。完全に信じ切っているらしい。

 父親は、少ししたらそんなことは忘れるか、あきらめるかすると思っていた。

 でも、息子は意外に真剣であった。そんなこんなしているうちに、とうとうカミサマの約束の期限である週末になった。



「あのね、カミサマが変身ベルトをくれるのは、今週中なんだよね? 今夜までにもらえなかったら、そのカミサマはウソ、ってことになるよね?」

 父親のその言葉を聞いた男の子は、ものすごい剣幕でこう言う。

「僕のカミサマをバカにしないで! ゼッタイ、ゼ~ッタイにくれるんだからぁ!」

 最後の最後まで、信じていそうである。

 父親は、もしこの子がベルトを得られなかった時のことを想像した。

 これほど真剣で純粋な分、何もなかった時寂しいだろうなぁ……



 さぁ、そこで父親はどうしたか。

 夕方、息子に気付かれないように外出して、ひそかに変身ベルトを購入。

 家に隠しておいて、その子が寝てしまった頃を見計らって、枕元に置いておく。

 眠りから覚めた男の子は、狂喜乱舞して喜ぶ。

「ホラ。僕の言ったとおりでしょ? やっぱり、カミサマはすごいなぁ!」



 ここで、注意したいことが2つある。

 ひとつは、もしこの男の子が、いい年をした大人だった場合、話が成り立たないということ。

 つまり、カミサマに祈ったら何か思い通りのものをポンとくれるはずなどない、ということを認識できている大人である場合、この男の子のような振る舞いをしたら、蹴っ飛ばされる。気味悪がられるだけである。あるいは、精神異常を疑われるかもしれない。

 ふたつめ。何度でも通用するわけではないこと。今回が初回だったので、たまたま父親の心を動かせた。しかしこれが味をしめて二度三度、と調子に乗ると、お父さんもいい加減うんざりする。



 ここで、冒頭のイエスの言葉を思い出してほしい。

 主人の心を知ってそうしない者は、鞭打たれるとあった。

 それは、さきほどの話で言うと——


 

●架空の神様に祈ってもダメだと知っていながら、それでも祈る行為



 これが、鞭打たれる。だって、『バカ』でしかないから。

 でも、年端のいかない、純粋な子どもが心から信じて祈り求めるなら——



●そんなことムダだと知らないで、けなげに頑張る行為


 

 ……となり、それは宇宙を感動させることがあり得る。

 さて、ここで新時代の常識。



『多く知識を得た者からは、その知識分の賢い行動が求められる。

 なぜなら、その知識の縛りを受けるから。

 その縛りをかいくぐって幸せになるのは、難易度が高い。

 少ない知識しかないものは、あまり多くを要求されない。

 知っている知識が少ないので、比例して縛りも少ないから。

 下手に情報を知らない分、幸せになりやすい。

 その人を制限する鎖が少ないから』



 多く与えられた者からは、多く求められる。

 少なく得ている者からは、少なくしか求められない。

 多く知識を得てしまった者は、それだけ世界観が細分化された、強固なものになっている。だから、その知識(常識) の範囲内で動くことを要求される。

(要求されるってか、自分で進んでそうする)

 逆に、知らない知識は人を縛りようがない。

 だから、その分その人は魂が比較的自由である。

(三次元的な意味で。本来どの魂も自由)

『知らぬが仏』とは、本当によく言ったものである。



 ただ、例外はある。

 例えば、重力の法則などは知ってる知らないなど関係ない。

 高い所から落ちれば、タイヘンなことになる。

 それは、この世界ゲームの舞台装置の設定であり、地球で生きる以上誰もが適用される。ゲームの中でキャラクターがどう振舞おうが自由である。しかし、ゲームやスポーツが面白いのは、「一定のルールや縛りがある中で、個々人がどう他者との差異を作って飛びぬけることができるか」にある。

 ゆえに、「すべてが自由、ルール無用」というのは、逆に面白くない。

 今日お話ししている「知識」や「縛り」というのは、もちろん「物理法則などとはカテゴリーの違う、心の世界に関するもの」である。



 例えば、悟り系のお話の中で、こういう話題がある。

「何かを得たいと思ったら、求めないこと。執着しないで、もうそれを得たという境地になること」

 それは、この世界のすべての人にとって効力を発揮するものではない。



●その法則を知識として知り、コミットして重要な位置を与えた者だけ



 ……に有効なのである。

 それを見たことも聞いたこともない人間には、あまり力はない。

 考えても見てください。

 得るためには、手放すことという知識を腑に落とした人だけが得られて、それを知らずできていない人は得られないのだとしたら……それは、どんなにセコい、了見の狭い、度量のない世界だろうか?

 先ほどのたとえ話で言えば、父親が子どものけなげさに心を動かされることもなく、変身ベルトがそんなことで得られるものか、と突き放すようなものだ。

 だって、息子の言うようなことがあるはずがないから。

 正しいかもしれないが、温かさがない。

 道理にかなっているが、血が通っていない。



●引き寄せの法則を知らなかろうが、得るためにはすでに得た気になること、と知らなかろうが得れている人はいます。



 私は、「引き寄せと知らずにやっていた」「知らずに手放せていた」 という発想は好きではない。

 正しいかもしれないが、それは 『全体を、ひとつの型にはめようとする』 危険性もはらんでいるから。

 知らずにやっていた、系の理由づけの裏にあるのは、「それが正しい」という感情である。



 例えば筆者は、クリスチャン時代は自分が神であるなどと思ってなかった。

 私はちっぽけな人間で、罪人で、大いなる神様に祈ることしか知らなかった。

 もちろん、引き寄せとかスピリチュアル系の話も知らなかった。

 私にできたのは、神に祈り求めることだけ。

「どうか、お嫁さんをください! 結婚させてください!」

 一年ほど、真剣にそう祈り続けた。

 手放す、とかとんでもない。

 結婚に、執着バリバリ。

 くれくれ、欲しい欲しいの一点張りだった。

 でも、結婚できた。素敵な伴侶と結ばれた。それが、今の私の奥さんである。

 引き寄せでないと、あるいは執着を手放すのでないと得られないんだったら、私はなぜ得られた?

 それは……



●宇宙は、必死で求めることしか知らなかった私のけなげな願いを汲んだ



 私はそう思っている。

 もし、悟り体験を経て、様々な知識を得た今の私が 「~くれ!~欲しい!」と叫んでいたら、きっと宇宙から蹴りを入れられる。

「……何やってんだ。知ってるくせに!」



 知識は力である、という時代はもう終わる。

 知れば知るほど、その人物を縛る鎖が増えるからだ。

 でもそれは、知識がまったくいらない、ということを意味しない。



●あなたにとって意味のある知識は何か?

 あなたを幸せにする知識は何か?

 喜んで受け入れたい知識は何か?

 それを取捨選択する時代である。



 何でもかんでも知っておいたほうが得、という発想は、知らないで損をする、ということを恐れた発想。つまり『恐れ』に源を発している。

 むやみに情報を知ろうとして手当たり次第に手を伸ばせば、空回りする。

 情報とは、考えようによっては恐ろしいものである。



●知らなかった昔にはもう戻れない。



 その覚悟があるかどうか。

 ないのに、情報に手を出す人のいかに多いことか。

 今日のイエスの言葉、『多く与えられた者は、多く求められる』を思い出してほしい。知れば知るほど、その知識内での制限された動きが要求されますよ。

 同じ制限されるなら、同じ要求されるのなら——


 

●どんな制限なら、受けたいか。

 どんな要求なら、されたいか。



 そこを考えて、見聞きするものを選びたいもの。

 でもそれは、決して難しくはない。

 心が喜ぶもの。アンテナにビビッと来るもの。

 自然と得たい、知りたいと思うもの。

 この考え方なら、ずっと実践したい。縛られて本望と思う教えならいい。

 知るべき、や知らねば、ではない「好き」を大事にしてください。

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