イエス、弟子の質問をガン無視する ~話したくないことは話さない権利~

 ……(イエスのたとえ話が続いている)

 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、 主は言われた。

「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。……(以下略)」



 ルカによる福音書 12章41~42節



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 イエスがたとえ話をしているその継ぎ目を狙って、質問をした者がいた。

 一番弟子のペテロである。

(新共同訳聖書では『ペトロ』だが、筆者は口語訳「ペテロ」で慣れているのでこちらを使用)

 彼は一番弟子でありながら、一番弟子らしくない人物だった。

 それは、一応ほめ言葉である。

 彼は頭の回転も鈍く、インテリなユダと比べたら知性やひらめきに天地の差があった。でも、彼には他の頭のいい人種にないものがあった。

 それは、図抜けた「素直さ、単純さ」である。

 イエスにとっては、頭のいい人間以上に欲しい人材だった。これが、彼がとんちんかんで弟子のトップらしい振舞いをしないのに、その座に居続けた理由である。



 まぁ、それは置いといて。

 ペテロはいつものように、場の空気を読まない遠慮なしな行動に出た。

 イエスのたとえ話中に口を挟んだ。

 引用が長くなるのでここでは割愛したが、イエスがどういうたとえ話をしていたかというと、「不忠実なしもべ(部下)のたとえ話」である。

 恐らくだが、ペテロは自分がイエスの弟子なので、彼の頭の中でこういう単純な計算が行われた。


 

  不忠実な部下の話をしている

 =イエスが意味なくこんな話をするわけない

 =部下のたとえ、ということは現実に弟子である我々のことを言っているのか?

 =なんと、我々に何か落ち度があったか?

 =いいや、そんな覚えはないぞ。

 =ということは、これは我々を遠まわしに注意しているのではなく、全聴衆に対して普遍的な生きる姿勢に関する話としてされている可能性もあるぞ。どっちだ!?



 ペテロの中にあったのは、恐れと自己正当化である。

 まず、恐れがあったからこそ、イエスはただ「不忠実なしもべ」の話しかしておらず、それが誰々だと分かる情報は一切出していないにも関わらず、「自分のことでは?」と解釈した。

 でも、自己防衛本能という名のエゴが、ペテロの耳に囁きかける。

「いいや! オレは頑張ってきた。落ち度なんてないはず。だったらこれは、自分たち弟子に向けたものというより、みんなに向けて言ってるだけかも。おお、きっとそうにちがいない!」

 一番自分に都合のよい解釈を見つけて、ホッとしたペテロ。

 でも、彼は欲張った。本当に、確認を取ろうとした。

 自分の解釈が当たっているか、裏付けされた安心感を持ちたかった。だから、イエスがトークの合間の息継ぎの間を狙って、「ちょっと待った!」をかけた。

「先生、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか?」



 で、この後のイエスの対応に注目してほしい。

 イエスは、ペテロをガン無視した。

 ペテロの突然の質問に、話の流れを妨害させなかった。

「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか ……?」

 イエスは、質問に対してイエスもノーも告げなかった。

 それどころか、質問などなかったかのように話を続ける、という有様だ。

 イエスは、表面上はペテロに対して『無視』を決め込んだ。彼には、そのような対応を選択したふたつの意図があった。



 意図、その1。

 覚者だろうが、一人の人間である。

 ワンネス(宇宙の根源)は垣間見たかもしれないが、依然として肉体をまとい、幻想生活を営んでいる前提は変わらない。そんなひとりの人間として、好きなものは好き、嫌なものは嫌という権利はある。

 したいことをし、したくないことはしない、という権利。

 言いたいことを言い、言いたくないことを言わない権利がある。

 だから、「覚者たるもの言動はこうあるべき、人には常に真実の愛をもって」などと言う人は、覚者の人権を奪う暴君と化していることを自覚していない。

 イエスは、ここで人としての当たり前の権利を発動した。

 この話の流れの中で、中断してまでペテロに構うのはトークライブ実施上好ましくなかった。単に、嫌だった。大きくはそれだけ。



 意図、その2。

 実は、正面切って相手にしないことが、相手にために益であることがある。

 子育てを経験した方なら分かると思うが、子どもが取り組んでいてやりにくそうにしていることを、何でもかんでも全部助けたりしないでしょ?

 確かに、最初は何度もやってあげるだろう。でも、タイミングを見計らって、多少の苦労は強いてもあえて「自分で」できるように見守りませんか?

 そうして、「自分でできた!」という実感を持ててこそ、身につく。実力になる。

 イエスはここで、あくまでも自然にそういう教育的意図を盛り込んでいた。

 イエスは「キング・オブ・キングス」という異名があるが、イエスが宇宙の王であるならばペテロをはじめ、すべての者がそうだ。大きな視座では、すべての人間が皆等しく自分の人生のあるじ(王)である。

 それはこれこれで、こうなんですか? 自分が宇宙の王であるくせに、自分の考えの最終決定権を他人に依存してくる情けない王に、イエスかノーかのエサを簡単にあげたら、この犬は野生ではなくなる。飼い犬に成り下がる。

 だから、目先の「楽」を与えることを拒否した。あくまでも、自分で考えさせたかった。自分で、落としどころをつけてほしかった。

 例えて言うなら、虫歯で苦しむ子どもを歯医者に連れていく親のようなものだ。

 歯痛止めを与えたら、歯医者さんに痛いことされくてすむわ、痛みは止まるわで、子どもは喜ぶ。しかしそれでは、長い目で見て悲劇になる。

 やはり、初めは子どもには辛いかもしれないが、歯医者に行って根本的な治療を済ませてしまってこそ、たとえその時は痛くとも、後々健康な腔内状態を保てるというものだ。



 イエスがペテロを無視したのは、教育的意図もあった。

 宇宙の王として信頼したのだ。

 他人の言うイエス or ノーで物事を決めるのではなく——

 お前が、自分で答えを出せると。



 私も、読者から寄せられる質問に対して、全部ちゃんと答えることはない。

 昔は、よく頑張って答えていたが、忙しさも増し答えることはまれだ。

 でも、例え忙しくても、イエスと同じスタンスは守っている。

 皆さんが私に質問をしてきた場合、もし答えがないなら二つの理由が考えられる。



①今日のイエスの話と同じ。答えることで、相手の宇宙の主人公の位置を奪いかねない場合。簡単に答えを与えることで、相手の成長の機会を失いそうな場合。



②私が「今ここ」に集中しすぎて、質問を読んだがその直後いろんな予定が詰まっていて、こなしているうちに質問があったこと自体を忘れてしまう場合。



 例えば、他の有名なスピリチュアルの先生や宗教家の名前を挙げてきて——

「誰々氏はこう言ってますが、筆者さんはどうですか?」

 こんな質問は、①に相当する。

 何とかというオッサンやオバサンがどう言ってるかなど、どうでもいい。

 要は、あっちが好きか私がいいかという単純な選択問題。

 比較検討して、どっちがいいか。そのマシなほうを信じよう——

 そんな思考は、働かせないほうがよろしい。損得を考えないほうがよろしい。

 これまでの人類が培ってきた論理的、合理的科学的姿勢の悪い癖だ。

 相手にするのが面倒なので、放っておく。

 今後の参考にしてもらいたいが、固有名詞を挙げてきて「~はどう思いますか」「~って正しいですか? 間違ってますか?」などという質問も、くだらない部類だ。まず答える気にならない。あなた自身がどう思うか? それだけが重要だ。

「自分の意見や選択が正しいのか? という不安」は、的外れだとだけ言っておこう。面倒だから、これも言っとくよ。



●全部正しい。

 または、全部間違っている。

 なら、あえてどれが好き?

 以上。 



 ②だったら、ゴメンナサイ。

 でも、それが結果として起こったなら、それは最善だったのだ。

 もしあなたが「こうあるべき」という基準に沿って判断し、嫌な気分になるというもったいないことになるのなら、自分の生き方について落ち着いて考えてみることをお勧めする。

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