良い僕・悪い僕 ~宗教・スピリチュアル疲れしていませんか~

 腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。

 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。

 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られるしもべたちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。

 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。   


(中略)


 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。



【ルカによる福音書 12章35~48節で理解に不必要な部分を割愛】



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 スピリチュアルという分野は、いつごろからブームになったのだろう。

 もちろん、大昔から変わらずあったわけで、最近湧いて出たものではない。

 常にあったものが、情報化社会のこの時代になって、メディアに乗じて 「さして人生をかけてまでやろうとはしていない、命がかかっているような切羽詰った必要はないような人々」までもが知れるようになり、仕事の合間のヒマつぶしに人気が出た、のが「ブーム」の正体。

 大勢に人気が出たと言っても、ほとんど烏合の衆と同じ。



 1990年代後半あたりから、「スピリチュアル」というカタカナ語が世に浸透しだした。そして2000年代に入り、江原 啓之さん(オーラの泉)の流れから人々の関心が加速しだした。

 そう考えると、私が活動し始めてから5年(※この記事を書いた当時)がたつが、大きな流れそのものはもうだいたい20年近くになるのだろうか。そもそも、スピリチュアルが目指すのは(悟りとか覚醒とか言う方向性もあるが)、間違いないのは個人レベルにおいても世界レベルにおいても『幸せ』を目指すことであるはずだ。

 もし違ったら、失礼。スピリチュアルをやるのはなぜか、という動機に「幸せ」という単語が含まれない人は、99%の確率で「バカ」で、残り1%は「かなり悟りが深くいらっしゃいますね」というスゴレベル。



 この記事を読んでいらっしゃるあなたのスピリチュアル歴は、いったいいかほど?

 20年! という人はまれだろう。10年とか。はたまた5年、3年。いやいや最近この道に入ってきたばかりです、とか。

 今日は、少なくとも5年以上やってきている自覚のある人向けに、話そう。

 スピリチュアル、という単語を『宗教』に置き換えて読んでくださってもいい。

 それだけスピリチュアル(あるいは宗教)に関わってみて、どうですか?

 あなたは、胸を張れるほど変わりましたか?

 なになに、「変わった?」 ほう、それはよかった。

 では質問です。



 あなたが本当に変われば、その変わったあなたを取り巻く世界が変わる、と言います。良く変わったのなら、その良い波動は必ず周囲に良い影響を与えないではいられないでしょう。

 さて、あなたが変わることであなたが接する人々や世界は、どれくらい変わりましたか? 自分が変わった、という実績でなく、「他人が(周囲の世界が)変わった」 と言えるものはありますか?

 あなたがもし指導者(スピリチュアルリーダー の立場)でしたら、社会に有名人としてほどに認知され、影響を与えられる立場においででしたら、あなたは世界を良く変えましたか?

 完璧にとはいかなくても、あなたが接した少なくとも半数以上の人は、幸せになったと言えますか?

 もちろん、あなたの話を聞いた本人責任というものもありますが、それを最初から盾に取って言っちゃいけないのが、人の上に立つ者のマナーです。



 今日紹介した聖書の文章は、イエスの「信じること」に対する厳しいアドバイスです。当時、『イエスブーム』なる現象が起きたのです。病気を治し、死人を生き返らせるほどの奇跡を起こし、斬新なメッセージを語ったイエス。

 それは、現代のスピリチュアルブームと似ている。弟子たちや深刻な病気や障がいをかかえ命がけでイエスを求めるような人でなくても、芸能人に人気が出るような感じで「関心をもって情報や本人を追いかける人」が大勢出た。

 数千人、万人がイエスの話を聞きに来た。しかしイエスは孤独だった。



●誰も、イエスが期待するレベルで向き合ってくれる者がいなかったからだ。



 もちろん、弟子たちの中には、生活や家族を捨てて従っている者もいる。 

 でも、究極にはそういうことではないのだ。

 イエスには、大体見通しが立っていた。今チヤホヤしてくれているこの群衆は、いつか近い将来その本質が暴かれて、私などどうでもよくなるだろう、と。

 イエスの見通しは、本人が思った以上に悲惨な結果になった。最後は、第一弟子のペテロですら、イエスと生死を共にせず「あんな人は知らない」とまで言わしめたのだから。

 たとえ一瞬とはいえ、イエスはそれまでやってきたことの成果が十字架上で「ゼロ」になったのだ。もちろん、本当の意味では違うが、現実的にはそういうことだ。



 イエスは、どんな気持ちでこのたとえ話を語ったのだろうか?

 僕(しもべ)とは、奴隷のことだと考えてもらっていい。

 今で言う「召使い」や「お手伝いさん」よりも、扱いと待遇がかなり悪い。これにくらべたら、家政婦など女王様である。

 もちろん、道具と同じなので無休、無給。人権もない。

 その僕にも、最後には二種類に分かれる。

 どんな時でも信じたものを (もちろん義務感でなく)保持し続け、最後まで貫き切った者。すなわち、主人の帰りをどんなに遅くても最後まできちんと待っていた者である。

 もうひとつは、主人の帰りが遅い! と待ちくたびれて、どうせしばらく帰ってこないから、テキトーなことをしてもバレない、といい加減なことをしだす。そして、恥ずかしい状況になっているタイミングで、主人に帰ってこられてしまう、という残念な者。

 それは、今で言えば 「スピリチュアルに一時は心が動かされ関わるようになったが、お金と時間がかかる割に自分も世界もそれほどには変わらず、幸せになったかと自分に問えばそれほど打てば響くような答えがホンネとして出て来ず、『この先もずっとこんな感じで、死ぬまでやり続けるのかなぁ? これに、意味があるのかなぁ?』 と思い迷うような者」。



 もちろん、顕在意識では「スピリチュアルやってて楽しいし、幸せです!」と言える人は少なくないだろう。てか、そう言わないと体面保てないもんね! 今更、辞められないですよね~

 あなたが親なら、子どもに冷やかされますね。

「お母さん、あれだけ自分も私も幸せになる、世界はこれからどんどん変わるって言ってたのはどーなったの? やっぱり、希望は延びるの?」

 あなたが子どもなら、親に皮肉を言われますね。

「お前がいつか言ってた、ワシも一緒に学べば意識が変化して現実も変わると言ってたアレな、父さんは結局やらなかったがお前はどうなった? あれからずいぶん経ったがその後、ワシに報告できるような奇跡は起こったか、言うてみ?」

 まさか、そのタミングで「長年やってきたけど、最近ちょっとどうかなって思いだしてる」なんて、プライドを重んじる人なら言えませんよね。



 スピリチュアル5年選手、10年選手のあなたへ。

 あなたは、長距離ランナーと同じだ。

 ゴールは、そんなに近くない。

 十分な燃料を最初から積んでブーストしないと撃ち上がらない宇宙ロケットと同じで、動機という本質が堅牢でないと、いつか息切れする。ちょっとしたつまづきや障がいで、簡単にあきらめたり情熱を失ったりできてしまう。中でも勇気のない人は一度取り組んだそれを捨てるに捨てられず、惰性と見栄だけで続けてしまいさえする。



 今こそ、厳しいことだがイエスの言ったことを意識しよう。

 今、表面的な情報だけ追えば、世界の現状と向かっている方向性は、必ずしも希望的とは言えない。むしろ、不安要素のほうが沢山ある。

 そんな中にあって、今本当に考えられないといけないのが 「スピリチュアル業界は本気か? それとも遊んでいるのか?」ということである。もう、内輪盛り上がりをしている余裕はない。

 実際に世界を良くしていかないなら、もうお役御免になってしまうほうがいい。ただ個人の気分が高揚して心地よいだけなら、もう効能はそれだけと言ってしまう方がいい。

 個人が変われば世界が変わる、と言ったらウソがばれる。個人が変わったと思うほど人というのは変わっていないものだ、ということがバレる。

 個人が実は変わっていないのだ、ゆえに世界もそれほど変わらない。これは理屈が通っている。だから、軽々しく「変わった、変わった」言うな。増してや、「生まれ変わった」「悟った」 なんて言葉、滅多に使うもんじゃない。



 今一度、勇気をもって「自分がスピリチュアルを続けている意味」に迫ってみるのもいい。え、そういう私はどうかって?

 もちろん私も人間だ、色々変化はしている。

 しかし、スタート時の初心は揺らいでないし、私の言葉の芯に常に在る「何か」だけは、人の気持ちの変化とは関係ないみたいで、常に私を動かしている。

 昔も今も、私はある意味では何も変わっていない。

 未来は断言できるものではないが、それを承知で言うと、おそらく私のこの胸の内は、死ぬまで変わらないだろうという感覚はある。



 息切れしている人はいませんか?

 ずいぶんスピリチュアルやってるけど、最近惰性になってきてませんか?

 一時のような、「もうこの先希望しかない。愛しかない」と高揚したワクワク感の灯は、あなたの中でまだ消えていませんか?

 スピリチュアルというのは、間口の広い誰でもウェルカムなものでは本来ない。

 生き残りゲームである。持久戦であり、兵糧攻めにあっても耐え忍ぶことが要求される。

 それを、筋を通して(初心を貫いて)最後の最後までその生き方や世界観で「本望だった」と言えるかどうかが、試されるのだ。その時々心地よさを選び、心が自然とやりたいと選ぶことだけしてればいい、というのはスピリチュアルではない。

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