良きサマリア人のたとえ② ~ひねくれた解釈バージョン~
【善いサマリア人】
ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。
ルカによる福音書 10章30~36節
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クリスチャンにはお馴染みの、「よきサマリア人のたとえ」である。
イエスは、「人として最高の生き方とは何か」と問われて、このたとえ話を出す。
そして、誰が一番立派だと思うか(追いはぎ、祭司、レビ人、サマリア人)と問う。そりゃ、誰が考えたってサマリア人でしょ(笑)。だから、人には優しくしなさい、慈悲の心を常にもって接しなさいという話になる。
しかし、このお話には「ひねくれたバージョンの解釈」があるのをご存知?
頭がいい人(時代背景や当時の世情に関する知識を分かって読める)の読み方を、ちと紹介しよう。信仰により、素直に聖書を読みたい人はご立腹するだろうが。
「ある」人が、追いはぎに襲われる。
これは、ただの犯罪者を言ったものではない、という説がある。
ゼロテ(熱心党)という政治的秘密結社の仕業という見方がある。
ただの物盗りではなく、政治的・宗教的信念からあえてその人物を狙った。
イエスの12弟子の中にも、「熱心党のシモン」というのがいるが、これのことだ。当時、目的のためには手段を選ばない集団として、恐れられていた。
と同時に、その組織の目指すところはユダヤ民衆の願望とそうかけ離れてはいなかったため、恐れてはいる一方でこっそり支持している人も多かった。
驚くべき解釈の第一は、襲われた人はもしかしたら多数のユダヤ人にとって「襲われても仕方のない(ある意味当然の)人物だったのかもしれない」ということ。
たとえばここに、ものすごく極悪な犯罪者がいたとする。
そいつが、裁判を受けたり一連のこの世的手続きを取る前に、拳銃で撃たれて死んだとする。もちろん、撃った者は犯罪を犯したわけで、ほめられたものではない。
でも、大きな声では言わないが、人々の心の中には「その気持ちわかる」と、決して責めないどころか同情する部分が大きい。かえって 「よくぞやってくれた!」 とさえ思うかも。
熱心党に狙われる、ということはそれなりに 「ユダヤ再興のためには狙われても仕方のないヤツ」でもあったのかもしれない——。
さて、次のひねくれた解釈。
祭司とレビ人、というのが出てくる。二人とも、ユダヤ教の職業的聖職者である。
彼らは、追いはぎにひどい目に遭わされて倒れている人を避けて、すたこら去った。これを「冷たい」「人としてどうか」と見るのが、一般的な見方である。
ユダヤ教には、律法という守るべき数々の「決まり事」があった。
特に、大事な宗教儀式を司る祭司やレビ人には、無数の拘束事項があった。
「不浄」という考え方は、世界のいたるところに見られる。
食事前に手も洗わないで食べるのはどうなん? みたいな感じで、礼拝の前の日などに「触れてはいけないもの」の規定が律法にはある。恐らく、その時血まみれの者を助け上げるのは、その「自分を清く保つ」ことを破ることになった、つまり律法に背くことになった。
だから、助けなかった、という話。
つまり、ここまでの話をまとめると、助けなかったのにはふたつの事情があった。
①宗教的信念を優先した結果、スルーした。
②そもそも、助けたい人物ではなかった。熱心党に狙われるほどのユダヤ民族の敵で、ユダヤ人からしたら死んでもいい人物だった。
そこへやって来たのが、サマリア人。
まず言っておかねばならないが、サマリア人はユダヤ人にとっては「外国人」であり、また犬猿の仲でもあった。敵の敵は友達、のとおり「ユダヤ民衆にとっての敵は、サマリア人の味方」。喜んで助けられる対象であった。
もうひとつの可能性は、サマリア人はユダヤ人がキライ。キライ=関心もない。
関心がない=ユダヤ人社会の内情など知らない。追いはぎにボコられた人が、どんな立場の人物かなどサマリア人は知らないし、気にもしない。
よって、サマリア人が追いはぎに襲われた人を助けた理由には、次の二つの可能性がある。
①敵の敵を助けることで、ユダヤ人に一矢報いようとした。
②ユダヤ人たちの事情が分からないので、助けることができた。「知らぬが仏」。
②のように、一般ユダヤ人のような「民衆の敵」というような視点がないので、ホイホイ助けることができた、そのように考えた場合、イエスがこのお話をした意図が、普通に読むのと変わってくる。
イエスは、単純に人には冷たくするのでなく、無関心でいるのではなく優しくしなさい、愛を注ぎなさいと教えるためにこの話をしたのではない。
●たとえ、どんな事情があっても、その事情とかを越えて命は大切にしようよ!
ユダヤ民衆には、その追いはぎに襲われた人物はローマ帝国や支配者に尻尾を振るゆるせない人物だったのかもしれない。だからって、死んでもいい、ザマぁみろって? それって、人としてどうなの?
イエスは、何かの引っかかりや事情のゆえに「良いこと」ができないなら、その事情を越えろ、と激しく指摘したものと思われる。
追いはぎ(ユダヤ人にとっての理想世界を目指す熱心党)には、いくら政治的・宗教的信念があってもそれで人を傷付けるなら、そんな信念ゴミカスだ、とイエスは怒ったのである。
祭司とレビ人には、宗教的な決まり事のゆえにあたりまえの人助けができないなら、そんな宗教カスだと怒ったのである。人を助けなきゃ宗教じゃねぇだろ! と。
サマリヤ人の行動に込めた、イエスのメッセージにはふたつの解釈の可能性。
①人助けであっても、「敵の敵だから助けておこう」では、せっかくの善行も残念なものだ。
②サマリア人を責めるわけではないが、「事情を知らない者しか自然に人助けができないなんて、人の世はなんと生き難くなったものよ!」という嘆き。
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