弟子たち、イエスに他人を滅ぼせと進言する ~『正しさ』の恐ろしさ~

◆サマリア人から歓迎されない


 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。

 彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。

 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、

「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」 と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。

 そして、一行は別の村に行った。



 ルカによる福音書 9章51~56節



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 私たちの住む世界には、「正しさ」というものが満ち溢れている。

 ただ、それは幻想に過ぎないのだが、皆があるとあまりにも信じているので、無数にある「正しさ」が、戦い合っている。

 その正しさに適さないターゲットを血に飢えた狼のように探し回り、いざ見つけたなら、牙をむいて襲い掛かるのだ。



 この世界には、実に多種にわたる「正しさ」がある。

 政治的信念における正しさ。宗教的信条における正しさ。

 倫理、道徳観念における正しさ。作法、常識にまつわる正しさ。

 それぞれがそれぞれの基準で、自分に合うものは受け入れ、そうでないものを矯正、それもかなわない場合は排除しようとさえする。

 これを、歴史上ずっと人はやってきた。

 新時代に突入はしたが、今は過渡期。まだやっている人はやっている。

 疲れた人から、いい加減うんざりした人から、気付きだしている。

 私も、散々この「正しさ」を求めて、傷付け傷付いてきたクチだ。

 これをお読みの皆さんは、どうだろうか。



 冒頭に紹介した聖書の箇所は、十字架にかかることを覚悟しながら、イエス一行がエルサレムへ上京する途中での出来事である。

 長い旅路なので、途中宿泊する必要があった。

 そこで、進行方向にサマリヤというちょうどよい町があった。

 ただ、そこに住むサマリヤ人とユダヤ人(イエス一行の多くはユダヤ人だったと思われる)は、基本的に仲が良くなかった。でもイエスは、活動の初期においてサマリヤ人に好印象を与えたある事件のおかげで、ユダヤ人でありながら好かれてはいた。

 そこがあるので、イエスの弟子たちも大丈夫だと思ったのだろう。

 弟子たちの中の数人が、まず先に使者としてサマリヤに行き、イエス一行の滞在を許可してもらいに行ったに違いない。イエス一行は、大人数である。いきなり現れてアポもなしにこれ全員泊めてくれ、では社会性がなさすぎる。



 サマリヤ人は、おそらくイエスがゆっくりしていってくれると考えたはずだ。

 イエス一行が歓迎されるわけは、多くの場合奇跡である。

 病気を治したり、悪霊を追い出したり。そして、沢山神の国の話をしてくれたり。

 そういうことを期待するからこそ、イエスを歓迎する村は多かったのだ。

 でも、この場合イエス一行は急いでいた。

 言わば、たった一晩の宿を願っており、明朝にはそそくさと発ってしまうのだ。

 それを聞いて、サマリヤ人たちはがっかりしたのである。

 何だ~! 夜寝に来るだけかよ~! ムシのいいやつらめ!

 ガッカリだよ~!

 そういうことで、少々大人げなくはあるが感情的に「断ってきた」 。



 それを受けて、イエスの側近である12弟子のうちの二人、ヤコブとヨハネが、師のイエスにこう進言したというのだ。

「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか?」

 あのさ、お前らだけだから! イエス様は、ゼンゼンッそんなこと望んでないから! この、カンチガイさん!



 こういう人ってたまにいる。

 自分の尊敬する先生を守っているようで。いいことをしてるようでいて——

 その実、自分のしたいことをしようとしているだけ。

 エゴから出て来た自分の思いに過ぎないものが、師の思いであり皆の思いだ、という風にすり替わる。

 そこのすり替えが、実に見事なのである。エゴは諸葛孔明並の策士である。

(それはエゴが悪いというのではなく、だからこの世は面白い、ということ)

 だから、過去の聖人たちの泣き所は、よく分かってない弟子や取り巻き、ファンであった。

 この場合も、師であるイエスの思いをゼンゼン分かってない弟子が、勝手に「先生は腹を立てておられるのでは」と推測した。それは、自分が否定されて腹立っただけだということが分かってない。自分がそう感じたということは、先生もそうだと思い込んだ。



 ヤコブとヨハネに、「やつらを天の火で滅ぼしましょうか」などと言わせるものは、何か。(一応、あのイエスの中心弟子だぞ……!?)



●こっちが正しい、という信念。



 これが後ろ盾にあるからこそ、堂々としていられる。

 多少の無茶があっても、「正しいのだから 仕方がない」。

 正しいことが守られるためなら、多少の犠牲はやむを得ない、と考える。

 人間は、理がこちらにある、と確信した時、残酷になれる。鬼にもなれる。

 正しさとは、それを乗り越えさせる魔力がある。

 第二次大戦中のドイツや日本。過去の歴史上、沢山そういう例はある。

 今なお、政治的信念や宗教的信念において「正しい」と自覚する人々によって、実に様々な「迷惑な」ドラマが繰り広げられている。



 人が、「自分は正しい」という信条的背景のもとに他者を攻撃しても、偉くも何ともない。例え最初が素敵な始まりであっても、次第に初心を失う。ズラされていく。

 気が付けば、手が血で染まっている。

 取り返しのつかないところまできて、はじめて気付く。

「何で、こんなことになっちゃったんだろ……」



 新時代において私がオススメするのは、このスタイルである。



●正しさ、を活動の力の源に据えるのではなく——

 楽しさ、やりがい、喜びを後ろ盾にしよう。



 これなら、大丈夫。

 そうそう、的外れになることはない。

 正しさとは、実はエゴの手先である。

 そこを見抜く必要がある。

 楽しさ、喜び、純粋な意図からくる情熱は、政党で言えば「無所属」である。

 これらの感情を行使しまくっても偏ることがないので、安心である。



 私は、著作物の中では断定的なはっきりした物言いをする傾向にあるため——

 お前、自分が正しいと思ってるだろ! という受け取り方をされてしまうこともあるかもしれない。

 でも、私は片時たりとも「正しい」を根拠に文章を書いたことはない。



●書くのが楽しいから。

 自分が書きたい考え方や内容が、ワクワクする内容だから。

 皆さんとシェアし合うのが、うれしいから。



 たったそれだけの話である。

 私が正しいことを書いてなどいない、書きたいことを書いているだけだと分からない人が、あれこれ言ってくるが、無意味である。私自身趣味で書いており、自分自身正しいなどとは思っていない。

 本人が正しいと思って書いていないのだから、そこへ 「あなた間違ってますよ」 なんて言われても、私としては外人調に肩をすくめるしかない。

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