イエス、いけてないたとえ話をする ~熱心に頼めば与えられる~ 

 あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。

『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』

 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。

『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』

 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。



 ルカによる福音書11章5~11節



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『信頼預金残高』という概念がある。

 人同士の信頼というものは、預金通帳に例えられる、という話である。

 他人の喜ぶことをしたり。助けてあげたり。相手の印象がプラスになる行為をする。そうすると、相手の「信頼の預金通帳」に、預金されていく。

 その残高に応じて、あなたの頼みを聞いてくれる。

 残高が膨大な額であればあるほど、多少無茶な頼みでも聞いてくれたりする。

 それだけ、信頼関係があるということだ。絆(きずな)が深い、ということだ。



 しかし。ここで忘れてはいけないことがある。



●使った額は、引き落としされるということだ。



 大した信頼関係でないなら、数回引き落としただけでゼロになる。

 最後の一回の引き落とし額が残金を上回れば、借金になる。

 つまり信頼を失うだけでなく、あなたは会いたくない人物リスト入りである。

 多額の信頼預金残高があっても、何度も引き出せば減っていく。

 引き出す分、預金することを心がけるならば問題はない。

 ただ、家賃や電気代、水道代が引き落とされる口座に預金せず放っとくのと同じで、引き落とされるのに補充しない、では結果は火を見るより明らかだ。



 この、信頼預金システムには、もうひとつ押さえておくべき注意点がある。

 それは——



●預金をするのは大変だが、引き落とすのは簡単だということ。



 トンネルを掘るのは長い月日がかかるが、出来たトンネルを通過するのは一瞬である。何年何か月をかけて制作した芸術作品でも、燃やしたり壊したりすれば一瞬でなくなる。ギャンブルなどすれば、汗水たらして稼いだ月給は一瞬で消える。

 それと同じことが、このシステムにおいても言えるのである。

 預金するのが、実に大変なのだ。

 かなり頑張っても、少しづつしか預金されないものなのだ。

 そのくせ、「引き出し」が行われる時は、預け入れより相場が高くなる。

 預け入れはどうしても少額ずつになりがちで、引き出し額は逆に高くつきやすい。

 コツコツと長年培ってきた信頼も、たった一回の過ちで崩れるではないか。

 だからこそ、人間関係とは難しいのである。



 ここで観察されるのが、「原因と結果」 の概念である。

 これこれこれだけの信頼関係があるから、この人にこれを頼んでも期待に応えてくれる。この人にはそれほどの信頼預金残高がないから、これは頼めない。

 つまり、先ほど触れた「信頼預金通帳」とにらめっこして、誰もが「どこまで人に頼れるか、あるいは頼れないか」を判断する。

 ほとんどの人は、その通帳を根拠にしてしか動けない。

 他人に対して、自分がどうしたいかよりも、その通帳の方をより確かな根拠として行動を選択する。



 でも、それってどうなんだろうか。

 一見、『信頼預金残高』という考え方は、もっともらしく聞こえる。

 でも、人ってそんなものだろうか。

 そんな考え方、寂しくないか?

 皆、そんな等価交換のような交流しかできないのだろうか?

 もちろん、人を傷付けたり、要求ばかり押し付けたり、裏切ったりするのは良くない。でも、だからと言って、誰でも例外なく、信頼預金残高でしか相手の事を考えないのか?

 どんなことがあっても、信じる。そんな揺るぎない信頼ってのも、あると思う。

 また、寅さんの映画じゃないが、旅先でまったく見知らぬ人の親切を受け、感動することがある。

 イエス・キリストの最期のドラマも、信頼預金残高など何の関係もなかった。あれだけ病人を癒し、多くの人に尽くしたのに、そんなにして積み上げた残高は何も効力を発揮しなかった。



 つまり、因果関係や等価交換を超えるものが、この世界にはある。

 神である私たちには、無限の可能性とエネルギーがある。

 それは、因果律や等価交換のみならず、あらゆる論理性や法則性をも超える。

 では、預金通帳残高、などという概念を吹き飛ばすものとは何か。

 それは、現状がどうであるという縛りを超えられる可能性を秘めた——



●今ここ、における情熱である。



 ここで、冒頭のイエスの言葉を見直してみよう。

 夜遅くに、旅先から戻った友人にパンを食べさせてあげたい。

 でも、あいにく家には何もない。

(二千年前だから、手軽にお買い物ができるコンビニなどない)

 そこで、誰かから分けてもらおうとする。

 私たちの発想だと、そういう時親や兄弟、親類や親友など、一番関係の濃い人物を優先的に頼る。もちろん、それで貸してくれる場合も多いだろう。

 てか、かなりの確率でくれるだろう。



 だから、聖書のこの箇所を読んで、腑に落ちない人もいるだろう。

 イエスが、「心から求めること、必死に求めることの大事さ」を言いたいのは分かる。でも、それにしてはたとえ話が下手すぎる。

 結構、知り合いは貸してくれると思うぞ? パン。

「起きて何かあげるわけにはいきません」って、もう起きてるだろう。

 しかも、戸の外から友達がパンくれ、って叫んだんでしょ?

 友人がもし寝ていたなら、その声で起きたわけだ。聞こえて起きるだけの声だったわけだ。だったら、奥さんも子どもも起きちゃわないか?

 仮に、家の主人だけ起きていて、他はまだ寝静まっているのだったら——

 寝床とパンのありかは別のはずだ。静かに、パンを取ってきてあげることは不可能ではない。

 てか、トモダチだからっていうのではあげない、なんて「それでもトモダチか?」って言いたい。

 妻と子の継続した睡眠状態のほうが、親友の心からの頼みよりも大切?

 なぜ、イエスはこんな説得力のないたとえ話をしたのだろう?



 イエスがここで言いたいのは——

 宇宙の王である人間が、心から何かを望むという時。意識、という無限のゼロ(創造)ポイントにおいて、エネルギーを圧縮する時——

 


●そこに、条件など必要ない。



 私たちはつい、これを得るにはこれが必要、こういう状況やこういう助けが必要、などと考える。

 自分の意識がそれをつくる、どころか他人の協力や物的条件エトセトラがないと、自分など何もできないと思い込んでいる。だから何かを願う時、まず考えるのは「外的条件」のことである。そこに終始してしまうので、あれがないこれがない、あー無理だやめだ、となる。

 そんなのものともせず、できる! と信じられる魂はそう多くない。

 少ないからこそ、何もないところから大成功を生み出したら、有名人になる。名声と富を得る。本が出る。これこそ本来はおかしな話で、皆にその力と可能性があるというのに。

「これしかない」という思い込みは、何とも曲者である。



 皆さん、重要なことを忘れている。

 イエスを、世間からインプットされた固定的イメージで見ている。

 彼が、完璧な人物だという。

 聖書が、真理しか書いていない完全な書物だ、という。

(これはクリスチャンだけかな)

 イエスだって、人間だった。間違いもする。

 確かにイエスのたとえ話は見事だが、時々「なんだかなぁ~」という例え話もするだろう。

 イチローだって三振する。打ってばかりじゃない。

 それが死後ずいぶんたったあと伝説となって、「彼は打席に立てば必ず打った!」みたいなことになるようなものだ。

 この例え話をした時、イエスは少々疲れていたのかもしれない。

 とにかく、本調子じゃなかった。

 だから、頼めばパンをくれる確率が実は高いぞ? というツッコミを生むような例えになってしまった。誰か、イエスにもっといい例えを考えてあげてほしい。



 イエスはただ、何かを心から願うのに、外的条件の計算を真っ先にすることの愚かさを指摘したかったのだ。まったくしなくていい、というのではない。それを優先順位の第一番に持ってくること自体が、宇宙の王らしくない、と言いたいのだ。

 何かするのに、現実的な方法や手段、データ的な根拠や確率、ということよりも、あなたの——



●純粋な意図

 それにかける情熱



 これこそが、ゼロポイントからの創造を可能にする。

 一見不可能なことを可能にする。すなわち、『奇跡』を起こす。

 このことを言いたい気持ちが高ぶってしまったイエスは、テンションが上がりすぎて、肝心のたとえ話が今ひとつなものになってしまった……と、そういうわけだ。



 人間関係において、私たちは『信頼預金残高』に従って判断し動く。

 それでダメそうなものはダメ。残高が大丈夫そうなら行動する。

 万事その調子。まさに、原因と結果、等価交換という牢獄の中で生きている。

 


 もちろん、残高を気にしなくていい、という話ではない。預金を積み立てるのはいいことだし、信頼を失うことをして、一気に引き出されることは起こらないに越したことはない。

 普段から、それは気を付けていていい。

 ただ、いざという時。ここ一番、という時に、信頼預金残高や現実的条件に絶望してあきらめる、なんてつまらなくない? ということ。

 過去の条件など関係ない、「今ここに在る」ことのパワーは、その程度のものなんかじゃない。

 信頼預金残高のみならず、あらゆる現実的状況を打破する可能性をもつ。


 

 イエスの言葉

『求めよ、さらば与えられん』の意味。

 あなたが宇宙の王(神)として意識し、心から選択することは——

 現実的な根拠や条件などを超えて、かなえる力がある、ということ。



 だから、過度に相手の気持ちや「どう思っているか」を心配して動けなくなるよりも、思い切って、心の声に従って動いてみたらいいですよ。

 あなたの心配は、多くの場合杞憂であることが分かるだろう。

 案外、うまくいく。

 旅先で困った時の意外な助け。

 体調不良で道端で倒れた時に、気が付けば誰かが親切にも病院へ運んでくれた。

 お金で困っている自分に、そう親しいとも思っていなかった意外な友人が黙ってお金を貸してくれる。

 親の愛、というものもそう。交換条件も何も要らない愛があるのだ。

 それを引き寄せるのが、「情熱」である。

 普段の日常では、信頼預金残高を気にしてもいいが——

 いざという時にそれを超える力があるということは、知っておきたいものだ。

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