イエス、正反対のことを言う ~覚者の言葉がいい加減な理由~

①そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」

 イエスは言われた。

「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」  



【ルカによる福音書 9章 49~50節 】



②わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。



【ルカによる福音書 11章 23節】  



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 


 皆さんは、悟ったと言われるような人は、「言説に隙がない」というイメージを持っていたりしますか? 

 言うこと全部に筋が通っていて、一部の狂いもない。なぜなら、宇宙の真理を体得していて、それと一体だから。彼自身が、「真理」であると。



 まぁ、そんな 「アイドルはトイレに行かない」クラスのメルヘンを信じている人は少ないだろうとは思うが、一応言っておくと「覚者という人種は、言うことが結構いい加減である。」

 この世界には、個性だとか個人差だとかいう要素も存在するため、一概には言えない。しかし、「無視できない大まかな傾向」としてそれはある。

 全員を検証はできない。いくら時間があっても足りない。

 そこで、今日は 「悟り人の総大将(頂点)とも言うべきイエス・キリスト」について検証することで、押しも押されぬ悟り人代表格がそうなんだから、それに続く者など押して知るべし……という話。



 まず、悟ると建前ではなく本当に理解されることは、次の2点。



①相対と絶対の違いが分かる。この世界は相対に属し、人には触れることの難しい (不可能とは言わないが、まず自分からは無理)絶対が存在する。それは、相対とは相容れない世界であり、親和性はほぼない。



②この世界は対になる対極に見える二性質(陰陽)の間を絶えず変化する世界であり、そんな世界で何か絶対なる事象を見出すことができないと知る。



 どんなに説得力のある格言(メッセージ)を言ってみたところで、それがタイムリーな人もいれば、状況的にそんな助言がまったく役に立たない(それどころかその通りにしたら余計事態が悪化する)場合もある、ということがわきまえられる。

 真理は、普遍的に本の中に文字としては書かれない。

 その場、その時、その状況の中にしかなく、一期一会である。

 どうあがいても、絶対確かなことなど言えない → ならその場に合ったことを言ってればいーじゃねーか、となる。もちろん覚者の性格も絡んでくるが、悟るほどに言葉に気負わなくなる。



 たとえば、「ホンネで生きろ」「心を偽るな」というメッセージがあったとして。

 確かに、その辺りのことで悩んでいたり、周囲を気にして言いたいことも言えずストレスとなり、心が病むような人には有効かもしれない。

 じゃあ、上司がホンネで嫌いな人が明日出社して、朝一番に「あなたが大嫌いです」と正直に告げた場合のことを考えてみよう。果たして、彼とその家族の先行きやいかに?



 そういう人には、アドバイスが変化する。上司がキライなら相手に正直にそう言えとか、隠すなとかいう話にはならず、「他人を変えようとするより、まずあなたが変わりなさい」とか、また別のアプローチが適切になってくる。

 ほら、いつ何時でもオールマイティに使える「絶対なこと」などないでしょう。

 結局、すべて正解はその瞬間にしかなく、1秒でも過ぎたら解はまったく同じではない、という世界に生きてるのだから、自然と言葉に対する責任感が薄くなる。

 言葉がどうでもいいというよりは、価値観体系というか何が大事かという比重が一般人とは大幅に変わるため、一面的に捉えると「言葉が適当」と感じられてしまう。



 イエスが、いかにその場しのぎかという実例が、今日紹介した聖句である。

 まず、①から。

 イエスのことを支援しているわけでも、仲間になるわけでもない「占い師(あるいは呪術師)」が、イエスの名によって命じると悪霊が出て行くので、喜んでそれを実行していた。

 弟子たちは、まぁ人間的にはイヤだろう。そんなことタダでするなよ、やるなら弟子になってほしいし、そうでなくても「イエスを支持する宣言」くらいしろよな、という感情にもなる。

 もちろんこれは明らかに「損得」といういやらしい話なので、イエスの弟子としては感心できないが、気持ちは分かる。ヨハネという弟子は「彼はらは仲間になる気はないそうなので、やめろと言っておきました」とイエスに報告する。

 その時のイエスの返答は、太っ腹で寛容さに満ちたものだった。



●やめさせなくてもいい。

 筋とか礼儀とか、まぁ置いとけや。

 決して悪いことはしてないし、むしろ目的は同じじゃないか。

 ならば、こっちに断りもなくとか仲間にもならないくせにとか、カタいこと言わんでいいだろ。



 しかし、②を見てみよう。

 イエスは、批判者から 「アイツのすごい奇跡は、悪魔の力を借りてやっているんだ」という誹謗中傷を受けた時の、イエスの反応の言葉である。

 ここでは、自分に味方しない者は敵だと言っている。

 つまり、先ほどのように「目的さえ同じなら、仲間にならずとも友達」という寛容な話とは180度違う。「私と一緒に集めない者は、散らしている」のである。

 先ほどの、イエスの名を利用して悪霊を追い出しているくせに、イエスに賛同せずついてもこない占い師のやつらは、この理屈でいくとはっきり「敵」となる。



 じゃあ、イエスは自己矛盾を抱えて、頭が破綻しているのか?

 あの時言ったこと、この時言ったことを並べると筋が通らない、ということを分からないイエスだと思うか? 彼はそんなことは百も承知だ。

 結局、TPOに応じたことをその場その場で言い続ける以外、何もできないと知っていた。イエスが、自分で書き記したものを一切後世に残さなかったのは、そのためである。普遍的に、すべての人に語るべき言葉などないのだ。



 だからイエスは、死後弟子たちに自分のことは話すなとくぎを刺していた。

 死人に口なしで、好き勝手に脚色され曲解されることが予想できたからだ。

 イエスの最大の驚きは、「キリスト教」なる、自分を頂点として崇める宗教ができてしまったことである。これには、たいそうガックリきたのではないか。

 未熟な弟子たちは、しゃべりたがりの「しゃべりタランティーノ」だった。

 挙句、イエス本人に会ったことすらないパウロという人物が、キリスト教の開祖となってしまった。



 私が日々綴っているこの記事の数々も、あるものとあるものを二か所抜き出したら、言葉上はまったく違うことを言ってるように見えることもあるはずだ。

 それは、筆者も自覚している。

 でも、どちらかが正解で、どちらかが間違いなのではない。

 読む人が置かれた状況によって、どちらが正解 (どちらを取り入れる方が今のその人に益か)かが変わってくるからである。

 だからすべての言葉は、ある状況下にいる人を想定し、「こんな人はいないかな?」と彼らのために言ってるのである。必然、この書の読者が大勢いれば 「今のその人には要らない、合わない」ものもあり、そういう人からの反応はよくないはずだ。そういう人からは、決して応援や星などつかない。(笑)

 なんじゃこれ? 今日の賢者テラさんの記事、納得できんわ~となる。

 ただ、すべての人に通用せずとも、世界のどこかには自分のために書いてくれたかのように有り難がる人もいるのである。



 書いたものを一切残さない、というのはハイレベルすぎる。

 それをフツーの悟りの基準にしたら、ただでさえ経典とか文書を後世に残している高僧も多いのだから、彼らは皆甘いということになってしまう。そうではなく、イエスが飛びぬけて徹底しているだけという風に見るほうがいい。

 ただ文字情報だけでは、人間のホネに肉がついていないようなもの。

 その言葉を語る背景、思い、どういう人に聞いてほしいかなど、すべての必要情報がくっついていないただの「格言」など、役に立たない。

 役に立つすれば、ただ骨組みだけを見て、自分で「肉付けして解釈」できる力のある者にとってだけだが、皮肉なことにそういうことができるくらいなら、彼らにはその言葉は必要ない。自力で解決できるレベルにいるからである。



『諦観』という言葉がある。

 悟ってあきらめ、超然とすること、くらいの意味である。

 ただのあきらめではないことに注意。悟って(物事の本質をつかんで)、あきらめるのだ。

 言葉を使う世界で、その境地を持つ者が「悟り人」である。

 この世界では、「絶対なこと」は言えない。

 何かを口にした瞬間に、それとは反対の可能性もあることが宿命づけられている。

 ならば、何が真理か正しいかなどピリピリするのは馬鹿馬鹿しいではないか。

 その場、その場を真剣に向き合っていたら、あとはどうでもよいではないか——

 だから、そんなイエスはその時々で言うことが色々になったのだ。

 同じことをしていたら、仲間じゃなくても味方だ、と言ってみたり。自分と仲間になってないやつ、同じことしてないやつは味方じゃねぇ、と言ってみたり。



 一時、ニュースになった瀬戸内寂聴さんのバッシングもそう。

 あの方は、「死刑制度反対」の群れの中で話していたから、自然と彼らの喜ぶ話し方と内容になった。まぁ、それでも「殺したがるバカどもと戦って」はちと言い過ぎたか。

 もし彼女が、犯罪被害者遺族の集まりの中にいたら、さすがにそれは言わなかったはずだ。むしろ、「心無い犯罪と戦っていきましょう。撲滅していきましょう」くらいはリップサービスで言うだろう。

 結局、悟ったとかなんとか言ったって、この世で生きれば場に応じて色々言わんとならんのだ。



 この世界で「一貫性」なんて、おままごとの料理と一緒で 「現実にはないし、食べれもしない」のだ。かろうじて貫ける一貫性があるとしたら、それは「理論の一貫性」ではなく、「言いたいことを言いたいように言う一貫性」である。

 イエスは、言う内容は一貫性から遠かったが、「その場その場で全力で目の前の人のために話す」ということだけが一貫していた。

 そのあまりに、場所や人が違えば反対の話にもなったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る