一番偉い者は誰? ~1番は誰か、なんてことを考える時点で的外れ~
弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。
「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
【ルカによる福音書 9章46~48節】
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この世には、スピリチュアルな発信者が星の数ほどいる。
「悟った」(自称・他称問わず)という人も、その中である程度いる。
いつの時代でも、議論の的になりやすいのが『誰が本物か』である。
さらには、本物と言われる者の中でも「一番高い位置にいる者」を知りたがる。
そういう議論は、甘い蜜にも似ていて、飛びつきたくなる人も多いだろう。
で、自分のお気に入りの先生に賭けることだろう。
そこで少しでも悪く言われたり、否定されたりしたら、寂しいものだろう。
(人によってはコンバット・モードにシフトする)
そこまで皆さんが「本物かどうか」とか「誰が一番正しいのか」に固執するなら、『覚醒者バトルロワイヤル』を誰か主催したらいい。
【参加資格】
発信の中で、一度でも「自分は悟っている」という内容を記載した、あるいは大勢にそれと読める表現を書いた者。あるいは、多くの人望を集め、「この人は悟っているのではないか?」という評判のある者。
なお、参加は強制であり、名前が挙がった者に拒否権はない。
もし、大会に参加しない者がいたら、試合放棄とみなし、スピリチュアル界での今後の活動を一切禁じ、もし勝手な活動が確認された場合、ペナルティが課される。
【競技内容】
数ブロックに分かれ、交代で聴衆に一人30分の持ち時間でメッセージを語る。
聴衆は、「真理性」「聞きやすさ」「ユーモア」の3つの採点項目の平均点を算出。最終的には総合点で、上位10人が決勝進出となる。
決勝では、10人で討論会をする。その場の中で、誰がもっとも説得力のある意見を言ったか。誰が激高せず、最後まで冷静だったか。また、その有効打と評価される発言の数、などを加味して、この世界でただ一人の「世界認定最高覚醒者」が決定する。
【優勝者特典】
その人物以外の、スピリチュアルメッセージは認められない。
これによって、皆が最高のものだけを耳にすることができ、違うものを聞くことによる混乱も生じない。まさに、価値観の違いから来る混乱・争いを避けることができ、スピリチュアル界には真の平和が訪れる。
その人物が現役で活動可能な内は、一切の追加認定を認めない。ただし、その人物が老齢に達しそれまでどおりの活動が維持できなくなる・あるいは病死や事故死などの突発的な事態により、最高覚醒者の座が「空位」になった場合、またあらたに参加者を募りバトルロワイヤルを開催する。そうやって、いつの時代にも必ず一人の世界認定最高覚醒者がいるようにし、また一切の追加(二人目以降)を認めない。
【敗退者特典】
リストに名前が挙がった者は強制参加であり、辞退あるいは当日不参加に関して、ペナルティが加わる。しかし、ちゃんと要請に応じ、正々堂々と勝負に挑んで惜しくも敗退した者は、スピリチュアル活動を禁じる代償として一般への就職を斡旋し、収入額によっては少額の生活費の補助的支給も保証される。
なんでこんなことを言うかと言えば、この職種ほど食えなくなった時の「つぶし」がきかない職業はないから!
……書きながら笑えてきた。トンデモな、もしもの脳内妄想世界。
これはちょっとやりすぎだけど、でも人々は脳内で、自分なりにこれをやっている。あなたの心の中で、バトルロワイヤルで今暫定的に王者なメッセンジャーを好んで聞いているであろう。(王者が複数いる、間口の広い聞き方の人もいるだろう)
もちろん、この諸行無常の世界においてそれは「暫定的」である。
あなたが亡くなるまで、その人物はタイトルを防衛するかもしれないし、誰かに変わってしまうかもしれない。それは、誰にも分からない。
ここまで読んだあなた。一番を決めるのって、なんだかなぁ……じゃないですか?
本物、ニセモノだって、個々人風情にどれだけ判定能力があるというのでしょうか。「主観」でしか世界を認識できない分離個体風情に。
結局、無意識の領域の「深い感情」に囚われ、完璧な客観性を維持できないのが関の山。
冒頭の聖書の話に戻ろう。
イエスの弟子たちは、「誰が一番偉いか」を議論していたという。
これが、「誰が本当に覚醒しているか」「誰がキング・オブ・ザ覚醒者か」を考える状態、と置き換えてみよう。
そこでイエスは、何と言ったか。
『わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』
子どもとは、個々のスピリチュアルメッセンジャーのことである。彼らは、自らの確信、気付きの境地に正直である。またその発信は、非常に無邪気である。
子どもにはまた、個々の個性がある。その子どもたちが伸び伸びと自己表現するのであるから、それらは皆微笑ましい、素敵なものとなる。
ただ、社会性的に幼い部分もあるので、常識に照らしてはみ出す部分は、ちゃんとしつけられねばならない。それを逸脱しない限り、彼らは責められるべきではなく、その表現の自由を見守られるべきである。
そして、皆がその中から 「遊びたいと思う、好きな子どもとワイワイ遊ぶ権利」 を持っている。どの子どもが一番、ということはない。もうそれは、好みの問題。
●最も偉い者。
それは、他の個々の違いを認め、受け入れることである。
優劣を付けず、そのままを認めることができる度量を持つ者である。
ここで注意が必要。
「受け入れる」とは、「全部を好きになる(キライの反対としての)」ことではない。別に、興味や関心のないもの、好きでないものまで無理に自分のものにしようとしなくていい。ただ、「そっとしておける」だけでいい。
そういうものに干渉するのは、「何か目に余る言動がある時。それが、少なくない人々に誤解と損害を与えかねない場合」 だけ。そうじゃないなら、進んで関わらないこと。
皆、個性が違うんだから。
人生模様が違うし、積み上げてきたものも世界観も違うんだから。
そんな、違う者達ばかりが集まって一番正しい人を決めようとしても、必ず歪む。
結局、裏で手を回してうまく立ち回った者、お金や権力のある者の意図に沿った結果になるという皮肉も生まれやすい。
悟りという言葉の響きから、それは「絶対」でないとならず、「真理」でないとならないため、人によって「悟りが違う」というのは受け入れがたいかもしれない。
でも、エゴ視点でしか悟りを語れない我々は、降参するしかない。
●みんな違って、みんないい。
爆弾発言をすれば、悟りも『個性』である。
みんな、言うことが違っていい。あなたはその中から、好きなものを選べばいい。
ただし、これは「悟りの話と認められる」大枠は崩されるべきではない。
「ウルトラ兄弟」 と呼ばれるためには、最低限 「ウルトラマンに見える」 ような容姿をしていなければならない。初代ウルトラマンもセブンもレオも、所々パーツが違って個性があるが「ウルトラマンだ」と認識できる範囲に収まっている。仮面ライダーなら、アウトである。
ある程度の枠を守っているなら、あとは兄弟同士仲良くやればよろしい。
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