人の子には枕するところもない ~ぶっ飛ぶ覚悟はあるか?~
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、
「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」
と言う人がいた。
イエスは言われた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
ルカによる福音書 9章57~58節
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これは、イエスが型破りなメッセージ(福音)を引っ提げて、いよいよ世の中デビューした初期のエピソードである。
一見、ことわりの文句にも聞こえる。
狐には穴があり、空の鳥には巣がある。つまり、彼らには自分の家がある。
落ち着きの我が家。帰る場所というものがある。
しかし、イエスが実際にしたことは、一定の住居を持たず、イスラエル中を行脚することだった。伝道旅行、と言えば聞こえはいいが、有り体に言うと「ホームレス生活」である。
当時、人生に刺激がほしい・自分もイエスにあやかってビッグになりたい、と夢見る者もいただろう。もしかしたら、イエス一行を呼び止めて弟子入り志願したこの人物も、そうだったかもしれない。
イエスは、相手の覚悟のほどを確認する意味もあって聞いたとも読める。
「いいか、オレらの活動は、生半可なことじゃつとまらないぞ!?
(もはや、体育会系の厳しい部活のノリである)
週休二日で、有給があって……なんてないぞ? 福利厚生なんて文字もないぞ?
ゆっくり眠れる場所すらない。ただ、ひたすら神の道を述べ伝える生活。
それが分かった上でも、あえてオレと行動を共にすることを望むか?」
もちろん、この箇所に関してキリスト教的、聖書的解釈は無数にある。
ただ、何の前提知識もなくここを読めば、大体は「弟子になるには覚悟がいる、って話だな」という理解になる。狐には巣があり……以下のイエスの言葉に対して、「忙しくて、プライベートでゆっくりする間もない。決まった寝床で寝る自由さえない」 「この道は、それほど険しい」 「だから、それでも行くという者にこそ、弟子たる資格がある」 ということだ。
これ、私はちょっと違うと思う。
覚悟がいるのだ、という大まかな点では合意するが、どんな覚悟がいるのか? という内容が違う。
私は、こう読む。
狐には穴があり、空の鳥には巣がある、という部分。
●これは、人の信念を例えたものである。
仏教を信じている人は、同じ家(仏教的考え方・発想)にいつも帰ってくる。
キリスト教のまだなかった当時は、ユダヤ教(旧約聖書)だが——
何か判断や選択をする場合、そのユダヤ教の教えに、当時のユダヤ人は常に立ち返っていたはずだ。それで、行動を決めていたはずだ。
つまり、巣がある・帰る家がある、というのはものの考え方において、いつも帰っていく基本スタンス、すなわち「一定の信念」という家があることを指す。
当時のユダヤ人たちは、皆そうだった。
その世界では聖書の教えが絶対的で、皆小さい頃からその内容を教わった。
その教えに従って、皆様々な判断を下した。
きちんとそれができているうちは、その世界ではうまく生きていける。
皆が安心して帰れる家、安心して判断基準にできる「ユダヤ教の教え」があるから、皆安心だったのだ。ユダヤ教の教えに従っている限り、一人だけとんでもないことをして、浮くこともない。批判されることもない。
しかし、イエスは何と言っているか。
「人の子には枕する所もない。」
つまり、実際の寝床のことを言っているのではなく信念の話だと考えると——
●枕する所がない。
つまり、決まった信念などない。
どれが正しい、間違っているのない世界。
決まった拠り所を持って物事を判断せず——
ありのままを見る世界。裁かない世界。
そういうとんでもねぇ道を行こうとしてるんだけど、ホントにOK?
これは、ものすごい挑戦である。
二千年前当時、支配的だった宗教 (ユダヤ教)の枠を捨てるよ、というのだ。皆が安心して寄りかかってきた、住み慣れた我が家にはもう帰らないよ、ということ。
外の何かの教えが自分より上であり絶対であり、神のしもべに過ぎない人間はそれにすがらないと生きていけない、という発想を捨て、自由に生きる(魂の声に従って生きる)ことを目指したのが、本当のイエスの「神の国運動」だったのではないか。
イエスはキリスト教が作りたかったんではなく、「生きたいように自由に生きろ。そしてそんな自分を自己肯定せよ」とただそれだけのことが言いたかった。
しかし、二千年前というこの世ゲームステージの序盤戦においては、革命的すぎてイエス以外の者にとってはついていくのが大変だったのではないか。
今でこそ、目立つ覚醒者が殺されもせず、かえって受け入れられ賞賛されたりするが、当時はまだ人類全体として宗教的教えや風習にガチガチだった状況があったから、脱落者も結構出た。ユダがそうだし、一番弟子のペテロですら、イエスが死ぬまでは師が本当に言いたいことが分かっていなかった。
自分が神だとか、外に真理はなくすべて人のうちにある、とか。今でこそスピリチュアルの発展のおかげで、そういう考えが市民権を得つつあるが——
二千年前の人にしたら、ぶっ飛び過ぎていたのではないか。
父なる神ほど正しく、全能で畏れかしこむべき方はいない、と教えられてきたのに。イエスが教えるその内容は——
「自分がその神、だって? 怖い、怖すぎる! 口が裂けてもそれは言えねぇ!」
その怖すぎる行為を、イエスはあえてした。
だもんで、三年たたないうちに、あっけなく十字架で殺された。
時間的にはあっけなかったが、人類に与えたインパクトは強すぎ、その後も歴史に影響を与えた。キリスト教、なるものも生まれ、今でもそれは盛んだ。
(しかし、キリスト教に落ち着く過程で、ずいぶんと当時の教会権力に都合がいいようにイエスの言いたいことは変形させられてしまったが)
だから、イエスは問うたのだ。
今からオレがしようとしていることは、世の常識への挑戦だよ、と。
宗教権力にまっこうから逆らうことになるよ? だって、それに囚われないことを目指すから。
殺されるかもよ? それでも、今まで築き上げ慣れ親しんでしまった宗教的信条を捨てる勇気はあるか? その枠から離れて、ものを考える勇気はあるか?
今回の結論として。
イエスは、弟子になりたい、と言ってくる人物に対して、覚悟のほどを問うた。
でも、その覚悟とは「枕する所がない、つまり決まった家も寝床もなく、地方から地方へのホームレス生活で、仕事もキツいよ。それでも本当にやる?」というニュアンスではなかったのだ。
今まで慣れ親しんできた、それに従ってさえいれば安心だった大事な 「宗教的信条」は捨てろ。そんな常識からすれば自殺行為なことを、お前はオレがやれといったら本当にやるか?
イエスのこの問いかけは、まさに今の時代の私たちにも投げかけられているのだ。
何かを「絶対」として、それを基準に人を、世界を裁くことをやめますか?
すべてはあるがままにあり完全で、違いなどあって当然。
それを受け入れ、魂の平安を選び取りますか?
オレの弟子になるということはな——
「もう、何であれ『ものさし』というものに魂を縛られないよ!」
そう宣言して、そういう生き方をする者になるということだ。
その覚悟がある者は、誰であれ拒まない。
しかし、少しでも常識や宗教権力に背を向けることに対する恐怖に囚われるなら、悪いことは言わない。無理をしないほうがいい。
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