たった一か所、流れを乱す文章が…… ~イエス、勢いで言いすぎる~


 しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。

 敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。

 上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。

 求める者には、だれにでも与えなさい。

 あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

 求める者には、だれにでも与えなさい。

 あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

 

 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。

 罪人でも、愛してくれる人を愛している。

 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。

 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。

 罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。


 

 ルカによる福音書 6章27~36節



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 自分がしてほしいと望むことは、人にもそのようにせよ——。

 この教えは、イエスの言葉の中でもかなり有名である。黄金律、とも呼ばれる。

「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない」という言葉は、中国思想の中にすでに登場していた。

 しかし、イエスの場合はそれを「能動的次元」にまで引き上げたことに意義がある……と言われている。



 今日は、この独り歩きしてしまった有名な言葉について、ちょっと冷静に見てみたい。実は、皆さんが感心しているほど、世界がほめるほど大した言葉ではないのだ。



 有名人になると、大勢を前にしてスピーチする機会が増える。

 スピリチュアル・メッセンジャーが講演会をするようなもので、しゃべっている内に熱が入り、テンションがヒートアップすることってある。

 そこで、勢いづいてしゃべっているうちに、ポロッと言わなくていい一言を言ってしまったりする。何かの次元にハマってしゃべっちゃっている最中というのは、理性や思考の検閲機関の働きが鈍くなっている。だから、あとで「あ、しまった!」という言葉も結構言っちゃったりする。

 勢いで、場のノリでついつい余計なひと言。それは、人間の悲しい性(さが)と言ってもいい。

 イエス・キリストでさえ、それから逃れられなかったのだ。

 自分がしてほしいと望むことは、人にもその通りにせよ——

 実は、これは『失言』なのである。



 世界の人は、イエスの言葉の一部だけをくり抜いて、ありがたく味わっている。

 この世界では何でもしたいようにしたらいいし、どんな捉え方をしても自由である。でも、もっとこの箇所を味わい深く読むためには——



●文章をブツ切りで読むのではなく、前後の文脈から読め。

 全体のひとつの流れとして読め。



 例えば、ここに「……バカ。」という文章だけがあったとする。

 これだけ読めば、なんだか人をバカ呼ばわりしているんだなぁ、という感想程度しか持てない。でも、この言葉の前に、こういう状況説明があれば、どうですか?



 A子のことをB男は密かに好きだった。

 A子が困っている時、B男はA子を助けた。

 でも、照れ屋のB男は照れ隠しにこう言った。

「オレが助けたのは、お前のためなんかじゃないぞ。ただ、困っているヤツは助けたかっただけだ。そこんとこ、誤解するなよ——」

 でも、B男の気持ちに気付いているA子は、そう言われながらも実はうれしい。

 顔を赤らめて、A子がポツリ。

「……バカ。」



「バカ」という言葉への認識が、変化しませんでしたか?

 言葉の印象が、無味乾燥なものから微笑ましさのある柔らかい感情に変化しませんでしたか?

 こうして、前後の文脈が存在する言葉ならなおさら、セットで読まなければ意味がない。一部だけ切り離すと、作者(話者)の意図したところが汲み取れない。

 ではこれから、上記に紹介した聖書のイエスの説教を、文脈で理解してみよう。



 冒頭の聖書の文章を一通り読めば、その主題は……



 あなたの敵を愛せよ。

 自分が愛する者を愛したところで、どこが偉い?

 そんなこと、罪人だってやるじゃないか。

 だから自分を愛してくれる者を愛したからと言って、なんら誇れるものではない。

 そんなこと、当たり前だから。


 

 ここでイエスが言いたいことの骨子は、こういうことである。

「自分がしてほしいことは、人にもその通りにせよ」は、主題ではない。

 上記のことを、熱を帯びて調子よくマシンガントークをしているうちうに——

 勢いで、つい適当に出た一言なのだ。

 この一言だけ、全体の流れと少し論点が違うでしょ? 全体から浮いている。

 敵を愛することの重要性が主旨の文章ばかりのちょうどど真ん中に、人にしてほしいと思うことは人にせよ、という異質な文章。そこだけ紅一点、みたいな感じになっている。

 それを証拠に、この言葉にはツッコミどころがある。



●自分がしてほしいからと言って、人もそうしてほしいとは限らない。

 自分がされて嫌だからと言って、人も嫌だとは限らない。



 イエスの言ったこの言葉は、実行が限りなく難しいのだ。

 例えば、ある人がSM好きだったとする。

 ムチでぶたれるの大好き。ロウソクの蝋垂らされるの大好き。

 縄で縛られるの大好き。「このブタ野郎!」とかなじられるの大好き。

 じゃあ、自分がされてうれしいこれらを、他者にするか?

 逆に、ノーマルな方が自分はそういうことされたらイヤ、ってんでSM好きの人にしないと——

「アァン! もっとぶって欲しいの。縛ってほしいの。お願いだから、ブタ野郎! ってなじってぇ~」

 そう欲求不満気に、身をくねらせて懇願してこないだろうか。



 自分の基準と他者との基準との間には、深くて大きい溝があるのだ。

 その溝は埋めようと頑張るよりも、認めることでそのままにしておくほうがいい。

 だから、自分がしてほしいと思うことを他人にするというのは、論理が破綻している。無理に頑張ると、どっかでギクシャクする。

 イエスは、「敵を愛せよ」というメッセージに酔いしれ、論理的思考によって言葉を校正する余裕などない。敵を愛せよ、という主題に直接は関係ないお薦めなので「脱線」とも言える。

 結論として、これはイエスが勢いでつい言っちゃった、ツッコミ所満載の一言。

 でも、「起こったことは最善」なので、後で訂正したり言い訳する気もなかった。



 私は、こういうのっていいと思う。

 いろんな配慮や他人の評価を気にしすぎて、必要以上に言葉に慎重になるよりは、言いたい放題言って結果失言(それも聞く人の主観だが)があるくらいのほうが、人として面白い。

 ある判断基準からは「余計なひと言」であっても、宇宙に起こった以上はそれもシナリオの一部で、何かに貢献している。そういうおおらかさをもって、もっと気楽にモノが言えるようでありたい。

 皆さん。イエスの言う通り、自分がされたいと思うことそのままを人にしたら、迷惑がられるケースもあり得ます。だから、本当に誰でも喜ぶと思える、常識の範囲で実行してください。

 あなただけが喜ぶ、マニアックなことは……人にしないほうが無難でしょう。

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