クソ生意気な少年イエス ~対岸の火事という心のスタンス~
【神殿での少年イエス】
さて、両親(ヨセフとマリア)は過越祭(むこうの重要な宗教行事)には毎年エルサレムへ旅をした。 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。
「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
ルカによる福音書 2章41~50節
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イエス・キリストの少年時代のエピソード。(多分に眉唾モノではあるが)
ぶっちゃけた要約をすると、こうだ。
小生意気なイエスが両親と行動を共にせず、勝手な行動を取っていた。
親の心配を知ったこっちゃないという風に、「私は神の家にいる(この地上のどこにいたって、神と共であるから何の心配もない)」という、親心を逆なでするようなことを言う。
そういう、悟った風の子どもだか精神的に高いのか知らないが、とにかく「可愛くない」ガキの(悟ってない側からすると)起こした迷惑な事件。
でも、ここを読むクリスチャンたちは——
「おお! イエス様は少年期からすでに、神と共におられる境地であったのか! すんばらしい!」
そんな感じで捉える。イエスファンなのだから、好意的にしか解釈しない。
イエスに非があるとかいう発想の可能性は、クリスチャンにとっては明日AKB48にスカウトされて、明後日即センターに立てるレベルであり得ない。
おいおい、イエス君。もっと両親の気持ちも考えてやれよ。
確かにさ、親にも非はある。
息子がいないことに、一日気付かなかったんだから。
どんだけ~!? この際、どれだけ移動する集団が大所帯だったかなど言い訳にならない。親なら、数時間息子の居所が確認できない時点で心配する。
昔は警察もいい加減で治安も悪く、迷子放送も電話もない時代。子連れで旅をする者はもっと慎重になってもおかしくはない。そういう意味では、ヨセフもマリアも抜けている。
※別の解釈では、家庭不和説が取れる。マリアもヨセフもホンネではイエス(特にヨセフにしたら私生児)などどうでもいいが、周囲への世間体としてちゃんと子育てしてますのポーズを取っていた、ということのボロが出た事件だとも取れる。
子を持つ親の読者なら分かるでしょ?
やっとイエスを見つけた時の親の気分を。
ああ無事だった。よかった! という安堵感と、こんなにも心配させて! と怒りたい気持ちのないまぜになった、複雑な胸のうち。実際にあなたが母マリアだったとしたら?
「母さん、心配したのよ? どれだけ探し回ったと思ってるの?」
その親としては愚かしくも純な気持ちを、イエスは踏みにじる。
「母さん、ごめん。心配かけちゃったね。もう二度としないよ」
可愛げのある子なら、これくらい親の気持ちを汲んだことを言う。
でも、イエスは——
「何をそんなに恐れているんです? 私が行くところ、どこでも神の臨在する場所です。だから、いつでもどこでも私には恐れがありません。母よ、あなたにはその信仰がないのですか?」
あ~もう、かわいくなああああい!
これだから、悟ったヤツというのは……(笑)
実際に、この状況で言われてみなさいよ。
読者にしたら、これは他人事で物語。もっと言えば『対岸の火事』だからこそ——
「イエスは幼い頃より神への信仰が確立されていた! さすが神の御子、救世主!」
そんな不思議な読み方が出来てしまうのだ。
聖書の記者も、イエス寄りの発言ばかり。(当たり前か)
こう書いてあるでしょ?
『しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。』
筆者は二児の父として、生意気な少年イエスに反発してこう言う。
●意味なんか分かりたくもねーよ! てか、分からなくて大いに結構!
親が素直に子どもの心配して何が悪い!?
一休さんのお話も、そう。
将軍様が「この屏風の中の虎を縛ってみせよ」と言うのに対して——
「じゃあ、縛ってみせますので将軍様、追い出していただけますか」
これを聞いて、将軍様をはじめ大人たちは「さすがは、一休さんだ!」と感嘆し賞賛する。
「このはしわたるべからず」という看板に対しても——
「じゃあ、はしじゃなくて真ん中を歩けばいいもんね~」
これにも、大人たちはバカの一つ覚えのように「さすがは一休さんだ!」
これ、実際にこのシチュエーションで言われてみ?
生意気なガキ、としか思えないと思うよ。
このお話自体、伝説というかフィクションなので、ツッコミを入れても仕方ないのであるが、将軍様にあんな返答をしたら、無礼討ちですよ?
まぁそれ以前に、いくら賢かろうが年端のいかない小坊主ごときを大の大人が呼び出して、賢さ(とんち)で勝とうなんて足利義満がするわけもないのだが。
お話の前提自体がすでにヘンなので、作り話と誰でも分かる。
……まぁ、話を元に戻すと。
イエスの話にしても、一休さんの話にしても——
実際に、自分がその現場にいて言われた立場なのと、安全な所から本やドラマで見て楽しむのとは、感じ方に天地の開きがあるということである。
「渡る世間は鬼ばかり」も、テレビの中の世界で、自分に関係ないからあの修羅場ドラマを楽しめるのだ。実際にあのようなことが視聴者に降りかかれば、もはや他人ごとではない。
見る見る顔が青ざめ、笑って見てられなくなる。
今日の記事のキーワードは『対岸の火事』である。
人にとって対岸の火事にあたることは、いい意味で言うと「落ち着いて見られる」。逆に悪く言うと「結局は他人事。見たいように見、言いたいように言うことができる」。
今回私は、その対岸の火事というスタンスが「よくないこと」だから、何とかしましょうという話はしない。いいや、むしろ対岸の火事というスタンスがあるから、我々は精神的に助かっている部分がある、と逆に感謝したいくらいである。
だから、対岸の火事もエゴや思考と同じで「無くそうとするのではなく、うまく使いこなしていけばいいもの」なのだ。
昔のドリフのご存じ、「もしものコーナー」ではないが——
●もしも、あなたが完全に『対岸の火事』という姿勢をやめることができたら?
あなたは、日本に居ながら24時間落ち着かない。
海外では、戦争や紛争がいまだに起こっており、今も兵士、さらには女子供まで犠牲になっている。我々が学校へ行き、メシを食い(時には食事内容に文句まで言い)テレビや映画見て楽しんでいる間にも、バタバタ人が死んでいる。
戦争だけではなく、飢餓の問題もある。
北朝鮮問題も、原発問題も、いじめ問題も、政治も——
ああ、考えること多すぎ!
こんなところで、自分だけヌクヌクしている場合じゃない!
震災だって、まだ終わったわけじゃない。台風被害だって、まだ支援が要る部分もある。それらを放っているあなたは、自分の安全や幸せ、豊かさを申し訳なく思わねばならない。
あなたは、対岸の火事ではなく放っておけない使命感から、家財を投げ打って戦争地域や発展途上国に寄付する。そしてあなた自ら海外におもむき、恵まれない人々に尽くすことを決意する。
仕方なく夫と離婚し、子どもたちへの思いを断ち、後ろ髪引かれるしがらみを切りさっぱりした後で、あなたは紛争地域へ行く。食べ物と衛生事情の悪さ、疫病に苦しみ、一生を終える——。
意地悪な質問をしてみよう。
あなたはどうして、今落ち着いておいしい食事なんかしてるんです?
あなたはどうして、今遊園地なんぞで遊んでいるんです?
あなたはどうして、今昼寝なんかしているんです?
あなたはどうして、今貯金なんかしているんです?
あなたはどうして、今500万くらい出していい車を買おうとしているんです?
食えない人がまだ世界にいるのに。
こうしている間にも、飢えて死ぬ命があるのに。
同じ人間なら、どうして今飛んで行って助けないんですか?
貯金全部使って助けないんですか?
なぜ、自分のために確保するんですか?
誰かの死を見過ごしてでも、自分の利益を確保したいんですか?
今、あえてこう書いてみたのは、世間の人がヌルい、ということを言いたいのではない。むしろ逆で——
●それでいい。
それが言いたい。
「対岸の火事」というリミッター(心的制御システム)があるからこそ、みんなは宇宙から与えられた脚本、つまりあなたと言う独自の「役」を演じられるのだ。
あなたは、あなた自身の事を大事にすればよい。
他のことは二の次。無理に首を突っ込まなくていい。
もちろん、日本にだって海外青年協力隊(シニア部門もあるそうだ)に志願する者はいる。
たいがいの者は会社や家庭にしばられて無理だが、東北の震災の折には、都合をつけて復興支援のボランティアをしに、現地に足を運んだ者もいる。
でも、それは 「本来は皆がするべきだが、それをしたのは彼らだけだった」 という乱暴な理想論から言うのではない。それができたのなら、そういうシナリオだっただけ。役割だっただけ。そこを、行けた人は人としてエラくて、気持ちがあっても動けなかった者はダメダメじゃん、というのは悪魔の理屈だ。
置かれた場所で、咲けばいい。
結果として、それができる状況の者に任せておけばいい。
あなたは、あなたの人生の舞台に登場する人物、状況と向き合えばそれでいい。
よその問題を対岸の火事とは思えず、関わりたいという思いが湧いてきたら、それはいい。だって、そういうシナリオなんだろうから。
そうじゃないなら、「私、外の問題に対して何もできてない。自分の事ばかりだ」 と罪悪感を持たなくていい。
だって、そもそも「自分のことばかり」でいいのだから。
演劇で、あなたがある役を与えられたとする。
あなたが劇本番でできることは、たったひとつ。
●自分の与えられた役を、きっちりこなすこと。
それ以外に、何かありますか?
あなたが自分の与えられたセリフだけでは飽き足らず、他人の役のセリフまでマスターしたとする。で、本番で相手役がセリフに詰まるとする。明らかに、セリフを忘れている様子だ。
そんな時、あなたは本番の舞台上で、観客が見ているその時に——
「あなた、次のセリフはこれこれこうでしょ!」
そう、見兼ねて教えてあげますか?
うん、確かにセリフを忘れている他人に教えてあげるのは、親切かもしれません。
でも、舞台はブチ壊しです。ウソな世界なのは皆承知の上です。でも、あえてその世界観に浸っているのに。あなたがセリフなど教えたら、あなたが皆を現実に引き戻し、興ざめさせることになります。
余計なおせっかいはしなくていい。
あなたはただ、舞台では 「自分の役はきっちりこなした上で、あとは他の役者さんたちを信じる」だけでいい。自分の事以外であなたにできることは、ない。
あるように見えるだけだ。
だから、対岸の火事という見方が備わっていることに感謝。
全部を抱え込んで、苦しまなくていい情報選別システムがあることに感謝。
ただ、それに頼り過ぎるとこの世ゲーム的なバランスが崩れるから注意。
その現象のことを、「ジコチュー」という言葉でもって世の人は表現する。
あなたが自分の役割を演じる上で無理のない範囲で、興味の対象となり得る範囲で問題に首を突っ込めばいい。「したい」分だけをすればいい。しんどくなる領域まで踏み込めば、どんなに社会的に立派な行為でも 「行き過ぎ」。
確かに、一見放っておけない、脅威と見えるようなニュースで世界は満ちている。危なっかしく見える。うまく立ち回らないと、とんでもないことになるように見える。でもさ、置かれた場所で咲く以外、自分の役割を演じきる以外どうせできないんだからさ。
まぁ、今のその場所でとりあえずはリラックスしましょ。
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