イエスは悪霊に愛で接さなかった ~イエスの塩対応の意味~
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
ルカによる福音書 4章 35節
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『クリーピー 偽りの隣人』 という日本映画を見た。
映画レビューサイトでの評価は低く、非難ごうごう。
一般にオススメできるかと問われれば、できないと答えるだろう。
でも、私にはよかった。
確かに、人の心の闇の部分を見せつけられ続けて、疲れるというのはあると思う。
人によっては、「なぜそのような行動を取るのか理解できない」「わけ分かんない」という感想を持つ人がいるが、それは話の作り手が下手なんではなく、常軌を逸した世界の人間の行動パターンや、独自の思考論理を理解できないだけである。
もちろん、理解できないで済むならそのほうが幸せなので、安心してほしい。
この映画には、西島秀俊演じる高倉という犯罪心理学者の刑事が出てくる。
最初の場面で、人質を取って首筋に凶器をあてがっている連続殺人犯 (サイコパス)を、高倉は説得しようと試みる。
「警察に囲まれていて、君はもう逃げられない。今君は人質を取っていることで、この場では『神』のような立場にある。でも、その人質に何かあったら、君は無事では済まないんじゃないかな?」
高倉は、自分は誰よりも犯罪心理を研究していて、対応がうまいという自負があったのだろう。でも彼の対応は、ただの「理詰め」である。一般的な損得を軸にして、相手にものを考えさせるなど、一般人にする対応だ。独特な内面世界をもち、独特な行動基準をもつ者には無効だ。
「……刑事さん、私を信頼できますか」
「できるとも」
「じゃあ、私の前に立って後ろを向けますか」
「できるとも」
これも、犯罪心理学者ならでの対応ではない。相手を信用してみせ、その後の展開を有利に説得しやすいようにもっていくのは、フツーの犯罪者にやること。
犯人は、背中を向けた高倉を背後から、遠慮なくブスリと刺す。
さらにその直後、凶器で人質ののど元を掻き切る。
その次の瞬間、囲んでいた警察官の一斉射撃を受け、犯人は即死。
その死に顔は、まるで本望だったとでも言いたげ。
犯人の最後の最後の一言は、「刑事さん、これが俺なりの正義の基準ですよ」。
結局、犯人は暗に「お前は何も分かってねぇよ」と言ったのである。
宗教家やスピリチュアル指導者の半分くらいは、多分「試された経験がない」。
おそらくだが、この高倉のように理論武装や心がけ(とは言っても本人だけが良いと思っているにすぎない)は立派で、実践で試されないので化けの皮が剥がれていない者もいる。
ひどいケースでは、試されないまま人気的に「大物」になってしまう者もいる。
犯罪心理学者なら、そもそもが「こっちに牙を向いてくる」存在を相手にするので、本人の純粋な実力があぶり出しになる。しかしスピリチュアルな発信でだんだん成功していく場合、そりゃアンチも出てくるがちょっと何かコメントで文句言われる程度。
嫌な者は、そもそも関わってこない場合がほとんど。
必然、スピリチュアル指導者の周りには賛成者ばかりが集まり、その人の人間性の根っこが「本当に試されるケース」を多くの人が目にすることもないまま、ファンになったり本や講演会に入れ込んだりする。
●きれいごとスピリチュアル・愛とゆるしという文字ばかりが踊るスピリチュアル人間は、かなりの確率で、浅い愛の実践をしてこの映画のようにブスリと刺される。
悪(そんな定義はおかしいが、とりあえず分かりやすいので使う)と戦うのに本当に必要なのは、知恵である。あと、圧倒的な悪の前に姿をさらしても物怖じしないで(あるいは自分こそが正義だという傲慢さを持たずに)対応できる力を裏打ちする、圧倒的な経験(失敗を含め、何度修羅場をくぐってきたか)こそが武器である。
イエス・キリストは多くの悪霊を相手にした、と伝えられているが、それは「溢れんばかりの愛で、太陽が旅人のコートの脱がせるような温かい対応」だったわけではない。
聖書を読めば分かるが、AKB48の某メンバーも真っ青の『塩対応』である。
福音書のほとんどの場面で、イエスは悪霊に優しい言葉などかけていない。
むしろ、叱りつけているのがほとんどだ。
イエスは、心(ハート) を開いて交流すれば分かる、愛で包めば相手も分かってくれるという甘い認識はなかった。それが通用するのは、相手と自分がそう大きく変わらない物事の判断基準や共通の感覚を持っている前提である。
内的な行動や選択の基準が著しく違う者に対しては、気持ちは大事にしても「知恵」を優先させないと、相手と同じ土俵にすら立てない。
相手の餌食になるだけだ。
鳴り物入りで人気が出て、大して苦労もせずに大きな影響力を持ってしまったスピリチュアル指導者の場合、自分の自信が理屈オンリーの「張り子のトラ」であることにも気付けず、調子に乗る場合がある。
そんなに真実の波動が伝わる、と言い張るなら——
トップの指導者は、全国行脚して、片っ端から人の心を癒して回れ。
刑務所訪問して、犯罪者に会って回るのもいい。
数年もそいつが旅
好きなことを好きな時にしまぁ~す! なんて遊んでる場合じゃないぞ。
真実の波動を伝えられる、高波動のアンタが怠けてたら、犯罪だ。
すぐ、その波動で世界を一刻も早く平和にしてくれ!
映画の話の続き。
自信満々に犯人を説得しようとしたはいいが、自分が刺された上に人質救出までも失敗した高倉はさすがにショックを受け、プライドを砕かれ警察をやめる。
そして、大学で心理学でも教えて、妻と二人静かな暮らしをしようと郊外に引っ越す。しかし、そこで高倉は筋金入りのサイコパス・西野(香川照之)と関わってしまう。なんと彼は、引っ越し先の「隣人」であった。
西野が普通ではなく、しかもある未解決事件の犯人ではないか、という疑念をもった高倉は、もう刑事という立場ではないが捜査まがいのことを始める。
その中で、どうしても未解決事件の被害者・本多(川口春奈)に過去の記憶を掘り起こしてもらう必要が出た時に、少々強引な接し方をしてしまう。「絶対思いだせ!」みたいな。
事件を解決したい、という思いの強さがそうさせたのだろうが……
本多は、高倉に言う。
「あなたには、人の心はないんですか!?」
それは、高倉自身がこれまで犯罪者に言ってきた言葉でもあった。
「お前には、人の心というものがないのか!?」
まさか、それを自分が言われることになるとは思ってなかっただろう。
ここに、「正しいと言われる道を歩き、間違っていると言われる人たちを正す道」 を歩む者が肝に銘じていかないといけない、重大な法則がある。
●自分が正しいことをしている、という自覚のある者には、ふたつの錯覚が起きやすい。ひとつは、「自分の能力や力が,、相手より倍増しなっているかのような全能感や自信」。
もうひとつは、「その善なる目的のためなら多少の無茶はゆるされる、なぜなら皆協力すべき大事なことだからだ」という驕り。協力を求めたら相手は従って当然、という感覚。
正義の側が一転して闇に引きずり込まれるのが、そのようなケースである。
警察(凶悪事件を捜査する刑事)などにこれが起きやすい。
そういう時に本来正義の側のはずなのにそれが「頼れる正義」に見えない。
大義名分が世のため人のためであるというだけで、それ以外は結局自分のため、というケースが、本来正義の側の人間をもっとも醜くする。
「正しい、というだけでそもそも天が味方するのだ」 みたいな勇気の持ち方は、一歩使い方を誤ると非常に危険である。
スピリチュアル指導者は、ここを気を付けたほうがいい。
自分の悟りやスピリチュアリティに揺るぎない自信がある者ほど(悟り系の人は自信とは言わず、ただ在るがままに在るを得ただけ、とか色々言うだろうが)、自分が正しいという深層意識下での「お墨付き」が、その人に余計な力を与える。
その余計な力は、以下の効果を与えるが、結局はロクなことをしない。
①割増しで相手より能力が上がった感覚で、相手に臨める。
②割増しで、態度がでかくなる。多少の要求をしても遠慮がなくなる。
自分は良いことをしている、という精神的後ろ盾が、その人物の正味の実力よりもゲタを履かせたように立派にする。(そしてそれは見事なまでに錯覚である)
警察が「ホシ(犯人)を挙げたい」 思うあまり、手段を選ばず非道なことに手を染めてしまうように、スピリチュアル実践者も善意の目的意識やよかれと思ってのあまり、「結果として相手を不快にさせたり、無理を強いたりして結果相手を傷付ける」ということには気を付けること。
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