イエスの眼 ~現代スピリチュアルへのアンチテーゼ~
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。
この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
ルカによる福音書 6章20~26節
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悟り系スピリチュアルという分野で、これまでも今も結構言われる言葉が「今ここ」である。
過去はない。未来だって想像の中の蜃気楼にすぎない。本当に確実で、大切にするべきは「今」だけ。
この言葉は、過度に大事にされ過ぎている言葉のように思う。
ものすごくそこにはまっている人を不快にさせることを言えば、「今」なんてそれほど大事でもない。今に、そんな大した重要性はないと申し上げる。
しかし、ここでしっかり説明しておかねばなるまい。
私が大したことはないと言っている「今」とは、人間自我が五感その他の人間の能力を用いて認識している「今」と呼ばれるもののことである。
人間は、正味の今を捉えきれない。感覚器官や伝達機能は、コンマゼロゼロゼロ1秒みたいな短さではあろうが——
●認識に時間を必要とする。
イコール、私たちがリアルタイムで捉えているのは実は「過去」である。
人間は、厳密には「今」に触れることができない。
その、触れることができない「今」は宇宙でも重要で、大変な価値がある。
しかし、我々が「今」と呼んでいる過去は、もう起こってしまった過去を見ている。だから、今ここではなく『今過去(かこ)』。
つまり、我々が認識する「今」だって過去の一種なので、今だろうが二日前や一年前の過去だろうが、そう大きな違いはないのである。
さて、ここまで述べたところで、次の話題に移る。
「今」がさほど重要でない、という話とイエスの上記の言葉が、どうつながるのかである。
イエスは言っている。
今飢えている人は幸いである、なぜなら満たされるから。今泣いている人は幸いである、あなたは慰められるから、と。これは、ちょっと考えてみたら不思議ではないだろうか?
「今ここ」が何よりも大事だ、とスピリチュアルの世界で言うのが本当なら、イエスもそう言いそうなものだ。
しかし、イエスは我々が使う「今」という概念を、それほど大事には思っていないようである。なぜなら——
●その人は、「今」泣いてるんだよね? 今飢えているんだよね?
それを、慰められるから、満たされるからとイエスは慰めているが、それは今のことではなく間違いなく後で起こること、要するに「未来」だよね?
イエスは、今はダメでも未来に期待しろって言ってるんだよね!
誰だ、まだ起こっていない未来などに目を向け、目標を立てたり心配したりするなと言ったのは。
イエスは、別に構わないと思っているようだ。
未来を大いに期待したらいいし、また心配してもいい。
「今ここに在る」というのは、皆さんが思っているほど単純な概念ではない。
イエスは別に、「今に在る」ことを否定しているわけではない。
ただ、「レベルの低い今ここ理解」を否定してるだけである。
過去にクヨクヨするな。起こっていない未来を気に病むな。今しかないんだから——そうシンプルに言えてしまうような「今に在る」は、本当のその道の入門編ですらない。
今喜べ。今心地よさを選べ。ワクワクせよ。
スピリチュアルではそう言う。しかし、イエスはそれに疑問を投げかける。
「今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」
人によっては、こう言うかもしれない。いや、イエスが否定しているのはあくまでも、自己中心的な欲望や快楽のもたらす「笑い」のことを言っているのであって、心(ハート)からの素直な喜びであれば、そんなことはないですよ! と。
残念なお知らせであるが、ここでイエスが指しているのは皆が思う「程度の低い」喜びのことだと言うのは間違いである。喜び、と捉えられる全範囲をカバーしたもののことを指す。
つまり、低俗な喜びだろうが高尚な喜びだろうが、共通することをイエスは言ったのである。
まぁ、分かるよ。スピリチュアルの教えの実践を頑張ってる人は、腹が立つよね。
善なる、愛なる「喜んでいる状態」も、下卑た、シモ系や物欲系の「喜んでいる状態」も、同じに「いつか悲しみ泣くようになる」から不幸なのである。
ここで、こんな不快なことを指摘するイエスの意図は——
●この世界は、陰陽(二極)が交互に、周期的に顔を出す世界。
個人差や短期視点での偏りは見られるものの、喜びと泣き、飢えと物質的豊かさ、幸不幸は交互に訪れる。それはもはや、音楽のリズムのようだと言ってもいい。
誰も、その諸行無常な様、変化の環から逃げることはできない、ということ。
何々、悟れば「幸せ」しか分からないのでは、って? どんな状況も視点を変えて「幸せにしてしまう」から、ある意味不幸はなくなるのでは、って?
ノンノン。
覚醒者(悟りを得た人)には、悟りという名の不幸が始まるのだよ、キミ。
結局、精神ステージが変わるだけで、「苦」からは覚者も逃げられない。本当に世から存在が消えるんでなければ、覚者とて苦を背負うのがこの世界なのだ。
今満腹でもダメよ。喜んでいてもダメよ。だってそのうち「変化」がイヤでもあなたに訪れて、あなたを取り巻く状況はいとも簡単に変わってしまうのだから——。
そんな風に脅すイエスは、現代のスリチュアルピメッセンジャーと言うことが逆行している。「今が良ければすべてよし」とは真逆である。
起こっていない未来を心配せぇよ、今のうちから気を付けといたらええよ、と言ってるわけだから。
●今悲しいなら、そのうち(個人差はある)喜びが巡ってくるから、頑張れ。
(死んでしまったら、それも来なくなるよ)
今幸せで嬉しいなら、そのうち辛く悲しいことが起きるから、今から備えるように。誰も、変化の波(周期的にめぐる陰陽のリズム)からは逃れられないのだから。
イエスは未来の何かのために、今こうしろと「未来から今を縛っている」のだ。
何、頭が混乱してきた? 結局、現代スピリチュアルとイエスの言葉とどっちに従ったらいいか、って?
あなたの好きな方でどうぞ、というのが正しく究極な答えではあるが——
個人的には、イエスのほうの理解をオススメ。
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