イエスはなぜ裁判で助かろうとしなかったのか ~生き長らえるより大事なこと~

 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。

「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」

  しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。

「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」  

 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。

「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」

 一同は、死刑にすべきだと決議した。  



夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。

  ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」 と答えられた。

(※訳が慎重になりすぎているが、「その通りだ」と言っているようなもの) 

 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。

「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」

しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。  


 マルコによる福音書 14章60~65節・15章1~4節



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 私の親が、最近会話の中で聞いてきた。

 あんたがしてる仕事(スピリチュアルな発信)、最近調子はどうなん?と。

 収入は減ったと正直に言った。自分がやりたいので、発信だけは続けているが生活が立ち行かないので、今別の仕事も探していると。

 すると、親はこの世界では至極まっとうなことを言った。

「一時は、色々な人にお世話になったんやろ? その人らに頭下げて、『最近お元気でしたか?』って言葉のひとつもかけて、また使ってもらえるように努力するのはどうなんよ。奥さんも子どももいて、生活かかってるんでしょ?」



 この世において、一家の大黒柱として家族を支える、そのために仕事をしているということなら、本当にその通りである。仕事人として返り咲くための王道であり、人の道である。

 もちろん、生きていくために他の道で何とかする努力ならする。その方面なら、頭も下げるし恥も忍ぶ。でも、私にはこの相対の世界に生きながらも絶対と言えるに近い確信がある。

 生活のために、一瞬は崩してみようとしたが崩せなかったそれは——



●私が調子こいてました。少々行き過ぎがありました。

 皆さん何かお気に障ったなら、反省します。直しますんで。

 心を入れ換えて頑張りますんで、どうかヨロシクお願いします!



 私がそれを言うことは絶対に近い確率で、ない。

 私は、自分の魂のオーダーという範囲限定で、「一瞬たりとも間違ったことはない」という妙な自信がある。それはおそらく、生活のために自分を押し殺して「~のためなんだ」と頑張って納得して意に染まぬこともしている一般人から見たら、甘えに見えるだろう。

「こっちは、大事なものを守るために、どんなことでもして世の中で生きてるんだ。そりゃあいいよな、お前はそういうふうに自分を貫けて。でも、あんた一人で生きてるんやない。他の人の幸せも考えなきゃいけないだろ?」

 まったく、それは正しい。しかし、やっぱりこれまで歩んできた道で、生活のために自分を変えることはできない。



 私は、親に「その道が好きなら、頭下げてでも(人間関係うまくやってでも)続けるのは無理なの?」 と聞かれた時、イエス・キリストのことを思いだした。

 彼は、なぜ十字架であえて死んだのか? と。

 もちろん、聖書の伝えている記述は史実として読むにはかなり弱いが、今となっては考える材料がないので素直に話の通りだとして、彼には助かる機会が少なくとも3回あった。



①ユダに裏切られ、逮捕される時。



 イエスは、聖書によると(実は私はそうは思わないが)ユダの裏切りを分かっていたっぽい。だから、逃げようとすれば逃げれたはずである。

 なのに、逃げなかった。

 変わった解釈としては、「イエスは実はユダの裏切りに気付いてなかった(本能寺の変みたいに)ので、裏切りを知っていて逃げるとかいう話じゃなかった」 という説と、「イエスは人類の救いのために十字架で死ぬ必要があったので、そのためにユダに裏切ってくれ(そういう役回りをしてくれ)と頼んだのだ」 という説がある。

 私は個人的に、前者の説を支持する。この件は、また別の機会に詳しく語ろう。



②ユダヤの祭司長や大祭司からの尋問。



 ユダヤの宗教家たちは、イエスに死んでほしい人たちばかりだった。

 だから、何とか死刑にしようと色々言うが、どれも裁判の証言としては「弱い」ものだった。しかも裁判の主権はローマ帝国側にあるため(しかも、属国ユダヤで宗教騒ぎがあろうがどうでもいいから、えこひいきしてくれない)、このままでは当たり前の裁判のルールの則った判決が出されてしまう。

 このままでは死刑にする証拠不十分で終りそうな時、大祭司は悪知恵を働かせた。

「あなたは生ける神の子、メシア(救世主)なのか。」



 この質問は、どっちに答えても地獄である。

 当時、自分を Son of God (神の子)と名乗る(認める)のは、とんでもないことだった。

 現代では、たとえひどい言葉でも何か言ったらそれで死罪、なんてありえないという感覚だろう。でも当時は、我々が科学に信頼を置くようにユダヤ教の教義、というものに全幅の信頼とすべての判断基準を置いていたのだ。

「そうです」と答えたら死刑。

 ユダヤ教の教えの最も大事な根幹は、『神を畏れる』という部分。だから、神様は仲良し! 僕のお父さん! みたく身近な存在みたいに言うのは、神への冒涜と捉えられたのだ。

「違います。私をそう言う人もたくさん出ましたが、この場でお詫びして訂正します。皆さんお騒がせしました」もしそう言えば、イエスは命が助かる。

 ただし、それまでの活動はできなくなる。もう、それまでのイエスのイメージでは皆見れなくなる。私がこのタイミングで「口が過ぎました。ごめんなさい」と言うようなものである。

 ちょっとは人としての評価が上がるかもしれないが、そんな私の言葉を誰も聞き続けたいとは思わないだろう。ここで命惜しさに権力に屈したら、誰もその助かったイエスを尊敬しないだろう。(外野とは実に勝手なものなのだ)

 で、イエスはわざわざ死ぬ方の「その通りです」を選んだ。



③ローマ総督ピラトからの尋問の時。



 当時のユダヤは、独立しておらずローマの属国であった。

 だから、ある程度の自治は認めながらも(ヘロデ王というのが治めていた)、ローマ皇帝が認めた人物を監督として送り込み、動向を監視させていたわけである。

 ユダヤ人たち自身には、人を死刑にする権限は与えられていなかった。

 ローマの許可が必要だったので、改めて当時のローマ総督(皇帝代理)だったピラトの前に連れてこられた。そこでもやはり、先の裁判と同じことが繰り返された。



 前回の裁判とは唯一違った点は、ピラトの立場である。

 祭司長や大祭司は、イエスを死刑にしたい私情があった。

 でも、このピラトにはそういう偏見がない。冷たく言えば、ユダヤなぞどうなろうが、誰が彼らの世界で王だろうが救世主だろうがどうでもいいことなのである。

 その完全な第三者だからこそ——



●祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。



【マルコによる福音書 15章9節】



 ピラトには、権力者が力に任せてエゴでゴリ押しした、茶番劇だと分かった。

 そんな茶番劇で、本来無罪の人が一人死ぬなんて、あってはならない。

 だからピラトは、できるだけイエスをゆるしてやる方向性で裁判をすすめた。

 これは、命が助かる絶好の機会なのだ。だって、その場にいる一番偉い者に味方されたのだから。

 でも、イエスはやっぱり自分が助かるような努力は一切しなかった。

 それどころか、「お前はユダヤの王か」と聞かれ、また「そうだ」を繰り返した。

 これでは、イエスは死にたいとしか思えない。



 イエスは、よく「真実の愛の体現者」として認識されている。

 キリスト教では神扱いだが、スピリチュアルではそこまで行かなくても「次元(波動)の高い人」「覚醒者 (マスター)」というふうに理解され、慕われている。

 それだけ「愛」というものが分かっているのだとしたら——



●自分がいなくなることで、悲しむ人たちのことを考えなかったのか?

●自分がたとえ名誉を失い、恥をかくことになっても、命あってこその人間じゃないのか?



 生きてこそ、挽回する機会もある。たとえ世界中を相手に手広く活動できなくなっても、ある程度の人たちの人生に、光を与え続けてあげることはできただろう。

 そう考えたら、なぜイエスはわざわざ死ぬことになる選択肢を選んでまで、死のうとした? 



 遠藤周作の『沈黙』という小説(映画にもなっている)でも、踏み絵をしてでも、一度キリスト教を否定してでも生きのびろというイエスの愛が描かれている。

 そんなイエスなら、なぜ自分に関しては人に言う通りにできなかった?

 無様でも何でも生きろ(人の親ならきっとそう思う)、というのを人には言えて、自分は死ぬ?



 人の愛が痛いほど分かるイエスなら、生きてもっと時間があれば、もっと沢山の人々の役に立ち続けられたはず。なのに、なぜ死に急いだ? というのが私の中で疑問だった。

 私は、キリスト教が言う 「人々の救いのため(イエスの十字架を仰ぎ、信じる)に、聖書で定められているように死んだ」というのは違うと思っている。

 それは、イエスの謎を短絡的に片付けるための方便である。なるほど、自分が死ぬことが逆に人を救うんだという理屈なら、イエスが死にたがるのも筋が通るから。

 でも私は、そんなんじゃないと思う。

 もっと、事情は複雑だったのだろうと思う。

 人を殺すことで、救いの道になるってどんなおかしな宗教なんだ!

(キリスト教が有名で当たり前になりすぎて、誰もそんな当たり前なことを考えられなくなった)

 だから、イエスが死んだのは人類の救いとかではなく、もっと別のもののためだ。



●自身の「納得」と「筋を通す」ためだ。



 それが具体的に何であるかは、もう本人にしか分からない。

 とにかく、それまでの生き方や主張を曲げてまで生きのびる気がなかった。



 ある人種にとっては、その筋を通すことがたとえ他人にはバカに見えても、命に代えてでも貫き通したいものだったりするのだ。

 きっと、私もイエスもそうだったのだ。

 時には、愛する者のために、という思いさえ超えて。

 そう言えば、「あしたのジョー」の矢吹丈も、どうか生きてくれ、と言う愛してくれる者の静止を振り払って(気持ちとして有り難くは受け取ったが)、結局リングに命を懸けたなぁ。



 この現代では、イエスに関して何を言ってもただの「可能性」にすぎない。

 それを承知で言うが、私は人に頭を下げてでも稼げるように戻れないのか、と聞かれた時に、「イエスも似た立場じゃなかったのか?」と感じた。

 命を保ち、大勢の幸せや利益を考えるということを超えてまで、『譲れない』一点。誰かのために生きろ、という発想すらその人を止めることができない。

 それは、一般感覚には理解されがたいが、何があっても変えられない思い。



 この話を読んで、色々な感想があるだろう。

 私の生き方を 「バカだなぁ」「損な生き方だなぁ」 と思う人も多いだろう。

 アンパンマンの歌で、「愛と勇気だけが友達さ」 という歌詞がある。

 今の私には、イエスだけが親近感の湧く友である。

 きっと、人に理解されない 「絶対に譲れないもの」のために死んだんだね——

 だから、親からのアドバイスは、親として子を思ってのことだと有り難く受け止めておく。

 でも、私はこのスピリチュアルの世界では、不器用と言われようが譲れないものは譲らないまま生きていく。内側に湧いてくるままの言葉を、これからもそのまま書き通す。 

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