口先だけの正義 ~イエスの時代も現代も変わらない人々の建て前~

 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。

 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。

 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」



【マルコによる福音書 14章3~9節】



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 このエピソードは、登場人物や状況を変えて少しずつ違うものが全福音書にある。ただ、ルカによる福音書にあるものだけは、残りの三つとは全然別物の話、と考えたほうがいい。今回は、あえて一番最初に書かれたマルコ福音書を参考にした。



 本文には「一人の女」と紹介されているだけで、イエスの弟子の女性なのかそれともイエスがいることを聞きつけて会おうとやってきた女性なのか、その正体は分からない。ヨハネによる福音書にだけ「マリア」とはっきり名前がついているが、それは事実と言うより時代での変化なので、ここでは無視する。

 予備知識なしで読むと、???となるのが、この女が「香油をイエスの頭に注ぎかけた」という行為の意味である。

 ドラマなんかで、飲み屋で話していた男女が痴情のもつれとかで、グラスの中身を相手にぶっかける、なんて場面があったりする。これも、イエスの頭に油をたら~っとかけるなんて、イエスがきらいなのか恨みでもあるのか? という感じに日本人なら読んでしまう。

 でも、全体の文脈からすると、イエスはこの女の行動を喜んでいる。だとしたら、この「頭に油を注ぐ」とは何か?

 これは、信者ならだいたいは知っていることだが、この「頭に油を注ぐ」というのは、聖書の時代においては特別な意味をもっていた。ユダヤの地域において、重要な役職に就く者が「神から認められた」ことを示すために、この油注ぎという行為が儀式として行われた。つまりこの「一人の女」は、イエスのことを尊敬し、好意さえ抱いているのだ。

 しかも、高価な香油を使ったと書かれている。女なりの、精いっぱいの「愛情表現」だったのだ。



 今日の話のポイントは、その行為を見た周囲の者たちの反応にある。

「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた、というところである。


 

 もし、上記の言葉を、その者たちが「心から、ホンネから」言ったのだとしたら、イエスの返す言葉もまた別のものになっていたことだろう。しかし、イエスが言ったのは「なぜこの女を困らせるのか」だった。イエスが「確かに、油は売ったほうが貧しい人たちのためになるな」と認めなかったのは、彼らが「本気で貧しい人たちの心配をして言ったわけではない」と見抜いたからである。



●彼らがしたのは、「気に入らない者を攻撃する目的で、正論を利用した」という行為であり、それは現代のネット社会でも広く認められるものである。



 政治家や芸能人の不祥事や失言などに、まるで死体にハゲタカでも集まるかのようにバッシングコメントが殺到する。

 よくもそこまで言えるものだ、という過激なものも多い。まるで相手の人格を全否定するような。おそらく、彼らのほとんどはその非難する相手を目の前にしては同じことを言えないであろう。相手に自分の正体が知れない、という『匿名性』が、弱い人間を大胆にさせる。

 ただ、弱いバカたちの口を大胆にさせる要素が、もうひとつある。



●自分が正しいことを言っている(正義は自分の側にある)という確信と自信。



 女を責めた者たちは、その油を本当に売って寄付しようとなんて思っていない。ただ、女が嫌いなのだ。したことが気に入らなかったのだ。(もしかしたら居合わせた者の中にはアンチイエス派もいたかもしれない)

 ならば、正直に「お前のしたことは気に入らない」と言えたら、人としてまだマシである。しかし、彼らは弱い上に卑怯であった。正直に言って、周囲に悪印象を与えたくないし、自分も傷つきたくないので、「そんなにするならそれ売ったら貧しい人を救えたのに」といういい子ちゃんの仮面を被った言い方になった。

 心にもない正論ほど、この世界で無価値なものはない。



 かなり昔、田村正和が小学校の教師役をして話題になった『うちの子に限って……』というドラマがあった。

 ある場面で、福祉ボランティアを率先して行う、表面的には優等生な男の子が、こうホンネを吐露する場面がある。



●「心のこもった十円より、心のこもらない一万円のほうが役に立つし、喜ばれるでしょ?」



 このドラマを見た当時、私はまだ中学生だった。言ってることは当たっているかもしれないが、その意見はよくない、と思った。それを言っちゃダメだよ、と。

 でも、今なら思う。この子は正直だ、と。少なくとも、正論を盾にしてホンネを隠し、上手に他者を攻撃する「女を責める者たち」よりははるかに。



 ネット社会で、匿名性と「自分は正義」という立場を盾に人を攻撃する者たちに、イエスは同じように言うに違いない。

「なぜこの人たちを困らせるのか」と。

 過ちを犯したかもしれないが、あなたが責める筋合いはない。

 それはしかるべき者がその役を担うから大丈夫。無関係のあなたが言う必要は1ミリもない。それより、自分自身の足元を注意したほうがよくはないか?

 あなたは、魂の底なし沼に足を囚われかけていて、それでいて自覚していない。自分では「世直しをしている」と思えて気分が良いほどなのだから、この上なく始末が悪い。



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