捨て石物語 ~権力者が責任を果たさなければ、代打が立てられる~

 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。

 これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』



 マルコによる福音書 12章10~11節



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 この言葉は、近い未来に自分を十字架にかけて殺すことになるユダヤ教指導者たちに向けて言った、イエスの言葉である。史実はともかくとして、この文脈での意味としては、以下のような推測が成り立つ。



 本来なら、新たな時代を作るイエスのメッセージは、当時世を動かす力のある者が受け入れていたら、話がかなり早かった。

 たらればを語っても仕方ないが、もしイエスが殺害されず、本気で人類が彼の指導を受け入れていたら、二千年後の我々の世界はもっと違うものになっていたことだろう。しかし、残念ながらそうはならなかった。

 イエス当時のユダヤ教のトップたちは、自分の富や立場の方を守りたいあまり、イエスの言葉を素晴しいと捉えるより逆に「自分たちを邪魔する者」として考えた。だから、イエスは予言めいたことを言ったのである。



●お前たちが棄権したので、神は代打を立てる。

 それは、お前たちが見下して歯牙にもかけない異邦人(ユダヤ教を知らない外国人)たちだ——。



 昔のユダヤ人の社会では、ユダヤ教徒でないことは「アウト」だった。

 ヤーヴェ(エホバとも言うが、そっちは読み間違い。とある団体のイメージのせいもあって、今はこっちはあまり言わない)の神を信じていないなど、マジありえな~いというレベル。

 だから、ユダヤ世界の内輪では、その神様を信じていない他民族や他国は 「アウト・オブ・眼中」である。救われないやつら、である。

 不思議なことに、このユダヤ教は伝道したりして、世界に自分たちの教えを広めようとしない。皆を救おう、という発想はない。そこは「選民思想」的な部分があって、救われるのはユダヤの民だけでよく、仲間が増えるなんて逆に面倒なのだ。

 逆に、入信するには簡単でない審査基準があり、「どーしても入りたきゃ入れてやるよ」という高飛車姿勢である。

 暗に、「来んでええぞ」と言っているようなものだ。神様に祝福されるのは、オレらだけでいい、みたいな。

 日本でも昔、「平家でなければ人ではない」とまで言われた時代があったが、それと似ている。



 しかしイエスは、彼らが見下す、よりによってユダヤの神の最初からの信者でもない「異教徒」が次世代の主役になる、と言ったのだ。神に祝福され、次の世界を作っていくのはもはやユダヤではない。もっと遠い外国に神の眼は移り、世界ゲームの中心はそこになる——。

 実際にそうなった。

 イエスが生きたユダヤ社会よりも、それ以外の外国でキリスト教は興隆を極めた。

 ただ、時は流れ、今度は今の世界が煮詰まった。

 今、世で権力を持ち中心にいる者達が、昔のユダヤ教指導者のようになった。

 歴史は螺旋形で、相似形で一定周期を経て繰り返す。

 今また、同じ事件が起ころうとしている。

 人は、歴史から学ばないのか。

 現状を維持し、今の時代で勝ちを得ている立場が惜しくて、あくまでもこの社会システムを守るか。イエスは今の世にはいないが、その代弁者たちが大事な声は上げている。ヒントは十分に地に満ちている。

 あとは、聞く耳をもつか持たないか——。



 だから、冒頭に紹介したイエスの言葉は、今述べたことのたとえ話である。   

 家を建てる者の捨てた石、というのは 「今の時代に冷遇される人、今の社会の在り方の範囲では評価の低い人、弱者」を指す。そして、これが 「親石になった」。 親石とは、その世界での一番の先頭であり、中心。それまでそこにいた者が保身に走り、新時代へ移行する上での役割を機能的に果たせなくなったので、首をすげ替えられるということである。



『ハーメルンの笛吹き』 という童話 (民間伝承。一部では実話を元にしているとも言われる) を思い出してほしい。

 ねずみ退治の報酬を出し渋った町の人々への仕返しか、笛吹きはその笛の音で、町中の子どもたちをさらって行った。そして洞窟の穴の中に入り、そこから二度と出て来なかった。

 ただ、二人の子どもだけは、皆の歩く速度についていけず、行き遅れた。

 足が不自由だった子。(別バージョンでは盲目の子と聾唖の子) 他の子どもたちのようにはついていくことができなかったからだ。

 


 結果として、二人の子どもは助かったのだ。

 笛吹きについて行ったのは、例えて言うと 「今の時代の適格者。求められる能力と実力をもち、優遇されている者」。この時代に合っていたばかりに、そんなうまく生きれる状況を捨ててまで世を変えたくなかったばかりに、笛吹きの音にフラフラついていき、破滅の道を辿った。

 足が不自由だったり、目が見えない耳が聞こえないというのは、明らかなハンデではある。でも、そのハンデのゆえに、次の時代に生き残り見届ける立場になった。

 これはイエスの話にも通じる、示唆的なお話である。



 考えてみれば、当たり前の話である。

 時代が変わる時に、その変わることが不都合な旧時代の勝ち組が役に立つ動きをするわけがない。変えていくのは、失うものも少なく、天秤にかけて困るほどの地位も財産ももたない(あるいは惜しまない)者が、思い切ったことをしていく。

 貴族社会から武家社会へ変わる時。長く続いた武家社会が幕末に終わりをつげた時もそうだった。

 歴史の節目で、変革期は相似形で繰り返す。

 そして今、最初はこれで決定版か、うまくいくはずと考えられた平和な民主主義国家日本が、だんだんにその弱いところを露呈し、大きな変化を迫られる兆しを見せている。終わらないものなんてないのだ。ただ、どれだけ続くかだけだ。

 江戸幕府などは、かなり長く続いた。今の社会体制が頑張ってもう半世紀ほどもつのか、もう持たないのかの瀬戸際にこの時代はあると見る。

 


 根拠のない私の予感としては、「捨てられた石」が生かされる不思議な時代になると思う。

 これまで弱者とされてきた者。あるいは時代にそぐわず、異端児とされてきた者。

 このまま今の指導者層が奮起しないと、チャンスを逃すと、代役に代えられる。

 もちろん、絶対そうなると分かっているわけではない。

 二千年前、ユダヤ教指導者はイエスの警告を無視した。

 今、日本を牽引している者達の気付きと柔軟性に期待しよう。

 今度は大丈夫なのかどうかは、そう遠くないうちに分かる。

 代打が出ないで済めば、今みたいな感じの世の中がもう50~70年ほど続く。

 もし試合展開が苦しく、代打がコールされれば、もっと早い時期に、かなり予想してなかった世の中になるだろう。 

 

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