イエスが離婚は悪だと言った? ~必要は真理の母~
イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」 と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
マルコによる福音書 10章1~9節
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イエスが、離婚問題について問答をふっかけられた時の話である。
離婚はいいと思うか悪いと思うか、神の子とうわさされるお前なら正しいことを言ってみろ、というのがファリサイ人の魂胆である。ちょっとでもあげ足を取る隙があらば、狙おうと。
するとまずイエスは、その当時の常識というか、広く認められていた考えをまずは指摘した。
「モーセはあなたたちに何と命じたか」
モーセとは、「十戒」とか、旧約聖書の『出エジプト記』を題材にした映画なんかが有名なので、キリスト教を信じていなくても知ってる人は多いだろう。
イエスが登場する前の旧約時代においては、そのモーセが書いたとされる (恐らく書いてない)「律法」という、神さまから授かった教えの数々(だと主張している)が、当時の思想のスタンダードであった。
スタンダードというか、絶対真理だと思われていた。
それによると、「離縁状を渡せば、別にかまわない」ということだ。
もちろん、当時は今よりオカタい時代なので、気に入らなければ何でも離縁状さえ書けばホイホイ別れられる、というほど自由にはできなかったはずだ。
それなりの理由がないと、さすがにダメなはずだ。
でも、イエスはこの一言を言い放つ。
●そりゃ、あんたらの心が頑なだから、モーセは合わせてあげたんだよ。
宗教やスピリチュアルの世界では、何かの考え方や教えを指して「真理」と呼ぶことがある。「これこそが真理だ!」なんて言ったりする。
もちろんそれは、時代を超え場所を超え、いついかなる時にでも適用可能とする内容を指す。
特に宗教は、自身の正典や教義に載っていることを「それだ」と信じている。
イエスが現れる前のユダヤでは、ユダヤ教が拠り所としている「旧約聖書 (これはクリスチャンから見た言い方で、ユダヤ教徒たちは「旧」だなどと全然思っていない)」 こそがその真理だと思っていた。絶対視していた。
もはや、そこに書かれてあること=問答無用で、議論の余地なしで絶対、という構図だった。でも、イエスはそこにメスを入れた。
●ごめんやけど、んなもん真理なんかじゃないよ。
時と場所と状況を超えて絶対、などという内容は存在しない。
1+1=2やE=mc²が絶対、などと言う人もいるだろうが、この次元宇宙限定。
「他人には親切にしよう」などはどうなんですか? いつでも絶対じゃないですか? と言われそうだが、それも違う。何から何まで、この世界とは流儀の違う宇宙だって存在する。
この世限定、ならまだいけそうだが、それも厳しい。個々人で 「何が親切に当たるかという基準」が異なり、さらに他人のホンネや状況に関する見誤りも手伝って、その親切がとんでもない悲劇を生むことだってある。
真理に「適用すれば必ず良いものを生む」という条件を課すなら、なおのことそんなものはない。
すべからく宗教などが「真理」と考えるものすべては、今のその時代の者のために、譲歩して語られたものに過ぎない。
だから、時代を経ても今に合うように料理しなおさず、そのまま出す (古代の宗教をそのまま今に持ってくるだけ、の単純作業)では、最初からトラブルのもと。
イエスは、当時信じられ絶対視されていた律法を、「人間のために作られたもの」 とバッサリ斬り捨てた。例えば現代で、ウケている教えやスピリチュアルがあるならば、それも 「この新時代だからこそ見出された、かつてないスゴい真理」 ではなく、「現代人が喜ぶように、需要と供給の関係で出てきた内容に過ぎない」 ということが言える。
恐らく、今のスピリチュアル業界で言われているようなことは、100年後200年後の一般人は 「よほど興味をもって調べないと」 触れることすらできないほど、忘れられているだろう。
別段、どれが優れているか劣っているかなどなく、どれが本物でニセモノかなど厳密にはなく——
すべてが、その時代の必要から生みだされる相対的、場当たり的真理なのだ。
それは、人のことは言えず私だってそうだ。
今の時代に生き、まさに今必要だから言う。
50年後、100年後にはまったく適さなくなっている可能性は多分にある。
「好きなことだけをする」 「心地よさを選ぶ」 「自分を肯定する」 とかも、時代を反映したものだ。あまりにもそうできていないので、「いいんだよ」系の癒しのメッセージが多いだけで、別段真理でもない。かえって、調子に乗って行きすぎるケースもあるくらいである。
イエスはこの聖書箇所のあと、話のオチとして創世記を引き合いに出し、「神が創世のはじめに男と女を創りたもうて結び合わせたのだから、二人はひとつになるべきで、一度ひとつになったものを引き離すのは神の望むところではない」 という説教をこのあとしている。
でもそれは、「教会に都合の良い話」をイエスに語らせているだけのねつ造ではないかと、筆者は考えている。覚者イエスが、何かの良し悪しについて、万民に等しく押しつけるような言動をするはずがない。
聖書の中でイエスは要するに、「離婚はけしからん」と言っているわけだが、当たり前の話だが一口に離婚と言っても、色々なケースが存在する。「それは仕方がないよねぇ」「離婚した方がいいと思う」っていう場合もある。
それを一律に「何であろうが離婚はよくない」なんて、愛情深いイエスがそんな頭の固いことを言うだろうか?
何よりも、人の「弱さ」に理解を示すイエスが、人間的未熟さのゆえに離婚に至る者たちを厳しく裁く、などということが想像できない。
存在するすべての教えは、時代に合わせたもの。
その時代の者達がそんなだから、今の彼らの成長度合いに合わせて、メッセージが生まれる。
それらは、あくまでもあなたがた向けであり、後世の人間や事情の違う者には合わないばかりか、かえって迷惑にすらなり得る。
だから今こそ、二千年も前の時代に書かれた聖書という書物を絶対視して、どの記述も神からのものだから問答無用で正しいんだ、という理解の仕方はやめようよ。
ゼッタイ、今の時代に応用したらおかしすぎるものが多いってば!
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