イエス、弟子の失敗の尻拭いをする ~大事なのは信じることではなく経験~

 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。

「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」



 イエスはお答えになった。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。 (中略)

 イエスは、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。



 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」 と尋ねた。

 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」 と言われた。



 マルコによる福音書 8章14~28節より理解に不要な部分を削除したもの



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 イエスが、ちょっと留守にしている間の出来事である。



 悪霊に取りつかれた息子を治してほしい、とある父親がイエスのもとを訪れた。

 奇跡を行い、どんな病気でもたちどころに治すイエスの噂を聞きつけ、わらにもすがる思いでやってきたものと思われる。ただ残念なことに、イエスは留守にしており弟子たちが対応したが、うまくいかなかった。

 ここでは、話の本質をボヤかさないように、悪霊が本当にいるのかどうかという議論はしない。とりあえず、このお話を読み解くために、あえて素直にいることにして読んでみよう。



 結局、イエスにはできて弟子たちにはできなかった、という話である。

 弟子たちも、一応の教育や訓練は受けているはずである。ただ、それでもこのケースでは敵も「手強かった」ということであろう。

 たとえ話をしよう。ある一流レストランに勤め始めたばかりの新人シェフがいて、だいたいのメニューに関しては作れるようになったが、いくつかはマスターシェフ本人でないとむずかしいメニューがあり、それはまだお客様に出せる状態ではない。

 でも、たまたまマスターシェフ不在の時に来た客が、注文の際その難しいメニューを口にした。接客の者は 「ことわりますか?」と聞きに来るが、自分だってシェフのはしくれ、できませんでは悔しい。ここはいっちょ、やってみたるか——

 やってやれないことはない。私はイエスの弟子。きっと何とかなるはず!

 ……と、そんな感じの話だったのではいか。

 弟子たちの心がけは立派だったが、心がけの良さで物事が何とかなるなら、勉強せずに良い心がけで東大にうかるようなもので、それはあり得ない。



 弟子たちは、結果失敗して恥じ入り、恐る恐る先生に尋ねた。

「なぜ、わたしたちではあの霊を追い出せなかったのでしょうか?」

 イエスは、聖書本文では、こう答えている。

『このたぐいのものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない』。

 これは私見になるが、イエスのこの言葉は捏造である。

 言ったはずがない。

 これは、教会側の考えである。悪霊に打ち勝つことができ、なおかつ信者にとってもっとも大切なもの、それは「信仰」であると。イコール神様に切に願い、また実現してくださると疑わず信じる「祈り」が大事なのだと。

 キリスト教の教義に沿って模範的に考えると、そういう読み方になる。

 しかし私なら、ここは実はこうなのだ、と考える。



●この種のものは、経験によらなければ追い出すことはできないのだ



 経験を別の言い方にすると 「場数」。

 どれだけ修羅場をくぐり、どれだけ豊富なケースに直面し乗り越える体験をしてきたか、だ。

 実に当たり前な話である。

 シェフがお客様に料理を出せるのは、その料理を何度も作り、食べてもらっても大丈夫ということを何度も確認し、熟練したからである。その料理を作った経験のない者に、作れるわけがない。

 私は学生時代卓球をやっていたが、「カット気味の横回転」に弱かった。

 ウチの学校の部活で、それを繰り出せる実力のあるやつがいなかったということもある。普段、仲間内としか練習しないので、その球種を実際に受けないと、返す練習もできない。

 訓練していなかったので、地区大会で相手校の選手にその球を打たれ、私が返球できないと見抜くとそこばかり突いてきて、私はなすすべもなく敗退した。



 英単語の試験を考えてもらったらいい。あれは、予習がすべてだ。まったく予習しないでこれに臨むと、ただ途方に暮れる。

 残酷だが 「知っているか、知らないか」ただそこだけしか問われない。

 イエスの弟子たちは、ショッカーで言えば幹部レベルの「悪霊」に向き合ったことがなかった。経験がなかった。だから、当然なす術がなかった。



●イエスと弟子とでは、くぐった修羅場の数が違う。格が違う。



 聖書を読めば、イエスの人生には何をしていたのか分からない 「空白の十数年間」 がある。その間に、あらゆる壮絶な経験をしたものと思われる。霊的指導者として名乗りを上げ、人前に出ても恥ずかしくないだけの 「下積み訓練」 を十分すぎるほどしたものと思われる。

 その基盤をもって、イエスは堂々として人を導いていたのである。



 イエスは、弟子たちに「信仰がないから (信じる力が弱いから、疑うから) 追い出せなかったのだ」と指摘したのではない。

 信仰があるというだけで、その他の物理的要素を全部無視して乗り越えられてしまうなら、この世界で生きる意味が薄れる。信仰に基づいた祈りさえ完璧にできれば、まったく勉強していない学問でも、テストで合格できる、と言っているようなものであるから。

 ここの聖書箇所はただ、普通の師と弟子の会話みたく、「おぬし修業が足りぬわ!まだまだ青いな」というだけの内容に過ぎないのである。

 問題は単純で、信仰どうのではなく、ただの「経験不足」である。



 この世界で、人を支えてくれる最後の砦は「経験」である。

 経験から抽出した、「こうすれば大丈夫」という精神論である。

「大丈夫だ」「うまくいく」というイメトレでなんかはない。

 よく、スピリチュアルで 「過去は一切今に関係ない。過去がどうだろうが、「今」あなたができると思えばできる。過去こうだから無理、は決めつけ。奇跡は今信じるだけで起きる」というような理屈がある。



●いや、過去の積み重ねのあるなしは大きくものを言うでしょ。



 これまで練習をサボってきたある選手が、今本気で 「勝てる」と信じ切ったら、強敵相手に勝てるのか? いくら「今ここ」の意識がマキシマムにご立派になっても、体に叩きこんでないものは発揮できないのは、当たり前。



●イエスは、信じること(意識の問題)が大事という言葉の危険性を知っていた。



 できると信じさえすれば、裏打ちされた努力や積み重ねた努力がそれほどなくても 「全知全能なる神のご加護があるなら、多少の無茶もなんとかなる。それが奇跡ってもんよ」という甘えが出る。

 神を信じることで奇跡が起きるなら——

 人間側の努力はそこそこでも問題ない、ということになる。

 いや、むしろ神に願うことに関して自分で頑張ってしまえば、「神様にはどうせできないだろう (だから自分が頑張るしかない)」 という考えを強化することになり、神様に失礼である……と考える。

 クリスチャンには、多少そういうところがある。しゃかりきに人間オンリーの力でなんとかしようするのは、何だか神様を信じていないような気がするのである。

 神様の偉大さが現れ出でるためにも、努力はほどほどにするのだ。

 でも、まったく何もしないわけではなく、努力の代わりにひたすら「祈る」。



 キリスト教会は、「神への信仰こそがすべて」であるという風にもっていきたい。

 死人に口なしで、イエスをそのイメージキャラに仕立て上げた。

 彼は恐らく、「祈りや信仰が大事」 だとは言わなかった。

 ある分野で一流となりたければ、時間を惜しんで「経験を積む」ことだと言っただけ。スポーツと同じで、ただただ「腕を磨く」という単純なこと。

 人として大事なのは、それに尽きる。

 本来「できる」 という自信も、「自分はこれに対処できる十分な経験を積んできた」 という思いが生むものであり、「ただ不可能だと思わず信じればなんだって可能」というニュアンスに誤解させやすい宗教やスピリチュアルは、罪作りである。



 意識万能主義者は、表立っては言わないし自覚もしないが、人間的現実的努力をちょいと下に見る傾向がある。なぜなら、それよりもすごい仕事をするのが「意識」だと思っているから。疑いなく信じ切れることが、少々の障害など吹き飛ばす、というイメージを持っている。

 この次元世界での真実は、『無い袖は振れない』なのだよ。

 練習してない技は本番で使えない。覚えてない英単語は会話で使えない。

 悪霊を追い出せなかったのは、弟子たちに「そのレベルの手強い悪霊に対峙した経験が圧倒的に不足していた」 だけであり、決して信仰が足りなかったのではない。



 悪霊は、人間の神への信仰や祈りなどまったく怖くない。屁とも思っていない。

 ただし、相手が 「実力とノウハウをもったエクソシスト」であることは恐れる。悪霊を負かすのは信じる力でも祈りでもなく、ただ 「悪霊を恐れないでいられるほどの人生経験を人間がしていること」 である。

 ただし、エクソシズム(悪魔祓い)は悪霊を一時的に封じるための方便でしかない。最後に必要なのは愛(正確には慈悲)になってくるが、これは皆さんがイメージ先行で想像するような甘美なものと違うので、注意。

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