聖霊を冒涜する者はゆるされない ~関係ないことまで動員して批判するのはアホ~

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。



 マルコによる福音書 3章18節



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「父と子と聖霊の名によって……」という言葉を聞いたことがあるだろう。

 洋画とか見てたら、よく出てくる。

 キリスト教が関係した「宗教ホラー映画」などで、聖職者が悪魔や悪霊じみた存在と対決する時に、よく口にする。

「父と子と聖霊の御名によって命じる。悪魔よ去れ!」とかいう感じで。



 父とは、旧約聖書のはじめから登場している、この世界を創造した神。

 子とは、失楽園し堕落した人間を救うために遣わされた「神の御子」であるキリスト。で、聖霊というのが日本人にはかなり分かりづらいと思う。



●一応神様みたいなもんであるが、女性格のように定義されている。



 神が親で、イエスと聖霊はそれぞれアダムとイブのように「対(ペア)」で考えられる。実際、イエスと聖霊は「夫婦関係」にあるらしい。

 非常に納得しにくいが、その父と子と聖霊はそれぞれまったく別個の存在ではなく、まったく同一の存在である、とするのがオーソドックスなキリスト教の考え方である。これを、『三位一体』という。



 プリズムを通して見える光を考えてもらったらいい。

 光は光なんだが、見る角度によって色々な色を見せてくれる。虹とかをイメージしても分かりやすい。

 つまり、見方によって、現れ方によって父子聖霊と別に認識できるが、実態はひとつである、という理解なのだ。

 


 イエスが存命中、悪霊を追い出す(病気を治すこと。当時病気は悪霊の仕業と思われていた部分がある)ことができたのは、水谷豊ではないが「相棒」である聖霊の力によるものと言われている。

 しかし、イエスのことがキライな人物、利害上邪魔になる人たちなどは、実際にイエスが病気を治せていることは事実なので、このように言ってイエスをバカにした。



「あいつは神の聖なる力で悪霊を追い出していると思われているが、実はどっこい、悪魔の身内なのさ! 悪魔と仲がいいから、『おい、皆を騙すために一時オレの言う通り引っ込んでくれないかなぁ?』って頼んでいるんだよ。

 で、『了解! アニキのためならガッテン承知!』ってんで悪霊は去る。お前ら、それでまんまとだまされているんだよ——」



 それを聞いたイエスは、「ちゃうちゃう! 何言うてまんねん! 正真正銘、神はんと聖霊はんの力やがな! それ以上言うなら表出るか!?」とムキになって応戦しなかった。

 ただ、相手を憐れみ、警告を発した。



「わてのことは、アホでもデベソでも何とでも言うてくれてええ。ただ、聖霊の力で追い出している、というのは揺るがない真実や。わてを悪く言いたいなら、直接わてに関わることだけで勝負してんか。

 でないと、病気直しをそんな風に言うことは聖霊をバカにすることになるんで、わてと関係のないところで、ペナルティ喰ろうてえらい目に遭うても知らんで」



 これは、人を批判する時の流儀を教えてくれている。



●どんなにイヤな相手だろうが、反対したい相手だろうが——

 その人物を貶めたいあまりに、関係ない別のものまで巻き込んでものを言わないほうがいい。



 たとえば、である。

 これまで筆者も色々言われてきた。まずは 「ニート」。

 えっと、働いてますけど……。きっとこれは、私が過去の著作やブログ記事で告白した「一時期のニート生活期間」のことを指して言ってるんだろうと思う。

 でもこれは、私をバカにする目的は達せても、ニートと言われる全体をもバカにしていると捉えられかねない。私だけをバカにするつもりが、気付かずに他も悪く言っているのである。

「(私の)親の育て方が悪かったんでしょう」という悪口は、私は別に何を言われてもいいが、一生懸命育ててくれた両親がこれを聞いたら悲しむだろう。言っている本人は、私の親も知らず、育てた現場も見ていないというのに。

 あと、「障がい者め」と言った者もいる。

 これも、私への悪口としては有効だが、障がいを持つ方全般を敵に回しかねない。

 このように、活動期間中色々言われてきたが、バカとかデベソ級の知的センスの低い批判ばかりで、いっこうに私が「うーん」と唸る批判がない。

 ホント、面白くない。



 今回のイエスの言葉で大事なポイントは、「聖霊をばかにするものではない」というところじゃない。

 そんな読み方をしていたら、浅い。

 何かを批判する時には気を付けないよ、あなたが感情的になって冷静さを失うあまりに、本来批判すべきものじゃないものまで利用して何か言うことで、余分な敵を作っていたらバカみたいですよ、ということを汲み取ってほしいのだ。



 例えて言うなら、スポーツでライバルに勝つために、相手の飲み物に下剤を入れたり、さりげなく運動靴のヒモに切れ目を入れておいたりして勝とうとするようなものなのである。

 相手に勝ちたいなら、スポーツそのものでガチに競え。

 それで勝ったなら、本物である。

 スポーツそのものに関係ないところを利用して勝っても、虚しいだけだ。

 イエスの反対者が、イエス本人に関係ないところを勝手に憶測して決めつけることで、どれだけ 「自分で自分の首を絞めているのか」に気付いていない相手の滑稽さに、イエスは腹が立つどころか憐みさえ感じたのであろう。



 問題に直接関係ないものに迷惑をかけない批判こそが、本当に何かを批判する必要がある時には、大事である。

 極力、その批判の対象となっている本題の範囲をはみ出て議論しないこと。

 相手の人格や性格、その他プライベートな関係ないことをあげつらって攻撃しない。もしそれをしてしまったなら、それはあなたこそが冷静ではなく公平さを欠いている、という証明である。



 あくまでも、問題となっている論点からブレない。

 そういう批判だったら、相手にも通じることがある。

 そうでないから、できた人間相手だとただ鼻で笑われ、同レベルの相手とはお互いムキになって泥沼の取っ組み合いになったりするのである。

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