律法学者、イエスたちを非難する ~話してて楽しいのはどっち?~

 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」



 マルコによる福音書 2章16~17節



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 ファリサイ派の律法学者とは、当時の知的インテリ層である。

 上流階級と言って差し支えない。

 今の世で言うと、TV番組に呼ばれる「~の権威でいらっしゃる~大学の~教授にお越しいただきました」というような人種である。

 いい風に言えば「専門知識を有する、立派な人種」である。皆が皆とは言わないまでも、悪く言えば「自らを他よりも正しいとする人種」である。その確信を支えているのが、「自分は人よりもものを知っている」という自信である。



 イエスと言えば、当時は押しも押されぬ大人気者である。

 この頃はまだ権力側も、彼を本気で殺害対象とするほどには目の敵にしていなかったので、このファリサイ派も概ねイエスには好意的で、「まぁ、付き合ってやってもいいぞ」くらいの感じ。(上から目線ね~!)

 上流階級の人なら、自分が付き合っている友人が、どこぞのホームレスのようなのと肩を並べている所を見たら、イヤな気分になるだろう。ホームレスと仲が良いのは知人であって、その人自身ではないはずなのだが。間接的に、なんだか自分までそのレベルに貶められたかのような「被害妄想」に走るわけだ。

 立派な家柄の自分の友人も、やはり立派であるべきで、その中に下々の者と同等に交わるようなやつがいては大変困るのだ。こりゃ、自分の名誉のためにもイエスに注意せねば! そう思ったわけなのだ。



「どうして彼(イエス)は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?」

 これは、文字通り解釈すればただの 「疑問・質問」 に見える。

 なぜ? どうして? という理由を聞いているように。

 違う。これは、質問の形を取った命令である。

「そういうやつらとの付き合いをやめたまえ。さもなくば、我々のサロン(社交場)に出れなくするぞ。そしてまた我々も、あなたとの付き合いに関して考え直さざるを得ないが、どうする?」 と。要は、脅迫である。



 脅迫というのは、その内容が相手にとって困る場合にしか成立しない。

 よって、イエスには何の問題もなかった。

 イエスにしたら、彼ら(上流階級・有識者)こそ一番どうでもよかった。

 というか、一番人間としてつまらん人種だとすら考えていた。

 だから、向こうから付き合いをやめるなどと言ってくるのならまさに「渡りに舟」である。どーぞどーぞご勝手に、である。

 イエスは、ファリサイ派にこう答えている。

『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である』。

 これをちょっと解説してみよう。



 素直に文字通りに受け取ると、取税人や罪人というのを「病人」にたとえているので、マイナスな立場だというニュアンスで捉えてしまうかもしれない。医者が必要、というのはハンデである。

 しかし一方、医者いらずの「健康な人」とは、ファリサイ派のような立派な人たちのことを指すと思われるので、ますますイエスが言った「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」は、オレは弱い者・悩める者の味方だぜ! 的なニュアンスとして考えてしまう人もいるだろう。



 しかし、この場合の「正しい人」という表現は——



●思いっきり、皮肉の意味で言ってますから~!



 正しい人とは、正確には「自分のことを正しいとする人」である。

 もっと正確に言うと、「自分の考えが正しいと思い込んでいる人」である。

 では逆に、イエスが言っている罪人とは何か。



 自分を正しいとはしない人種。

 自分が間違っていることもあるかもしれない——

 その可能性を認めて、検討する余裕のある人。

 自分の間違っている可能性を常に考えるのは、その人が弱いからとか、自信がないからという種類の動機ではない。それは、謙虚さと柔軟性という強みの表れである。



 ここで、ちっと考えてみてほしい。

 あなたは、どっちの人と話して楽しいと思いますか?



 ①自分の意見こそ正しい、という前提をもって話す人。

 ②特にそういうところはなく、柔軟な考えの人。



 ①は、ファリサイ派の立場に当たる。自分の「正しい」とする内的物差しを基準としてすべてを斬るので、そんな人と会話しても面白味が半減する。

 そういう人と何度か話すと、その人の価値基準が見えてくる。返答パターンが読めてくる。一度相手を読み切れてしまうと、もう一生会わなくても特に寂しくはない。どうでもいい人、となる。

 でも、特に変な矜持を持たず、自分の意見におかしな自信のない人だったら、しゃべりやすい。固定的な信念のある人だったら、ちょっとでも引っかかるところを発見したら、自分の基準をまくし立て話がそこで頓挫する。しかし、②の人は頭から否定せず、最後までちゃんと話を聞いてくれ、自分の見解を言うにも慎重にする。

 一方向に話を持っていくような、不自然に強い流れを作らないので、話が思わぬ広がりを見せたり、発展した話になり会話も膨らむ。

 だって、相手の価値観も尊重できるからだ。



 正しい人、とは自分の判断や価値基準に自信をもち、会う人会う人その基準で応対し、相手を疲れさせる人。話の広がりの可能性を潰すのが趣味な人。

 罪人とは、自分を正しいとはしない人。その人の中に絶対の物差しがないので、人が何か言ったら何が正しいかを「教えてやろう」と待ち構えてなんかいない。だから、会話相手も安心感がある。

 イエスは、だから自分の知識や博学に自信をもつインテリなやつらと話しても、何を言っても彼らが内に持つ「精米機」にかけられて返されるだけと知っていた。

 だから、「健康な人には医者は要らんだろ(お前らのような人種はオレが何を言っても、どうせお前たちの基準でどうだこうだと評価してくるんだろ? そんなのにメッセージしても甲斐がないからお断りだ)」と言ったのである。



●宗教やスピリチュアルを、強い信念と確信を持って広めようとしている人たちよ。

 胸に手を当てて、今日の話の「ファリサイ派の人たち」のようになっていないか、内に問え。



 信念というものは、多くのケースで持っていると損をする。

 簡単に崩れないからこその「信念」 でしょ?

 その「崩れない」という部分で、色々な気付きの機会を逃していることをご存知?

 同じ持つなら、「絶対正しい信念などない、という信念」 を持つことをオススメしておこう。

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