友のためなら、人んちの屋根でもはがすぜ! ~強い気持ち・強い愛~


 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。

 イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。

 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に——

「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 



 マルコによる福音書 2章1~5節



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 信仰ズブズブの観点から、対岸の火事感覚で読めば美談である。

 でもこれ、冷静に読めば非常識でぶっとんだお話であることが分かる。



 と、ある日のイエス。

 お忍びで変装してやってきた有名人が、ふとしたことからバレて人だかりができ、場が騒然とする、といった状況を想像していただいたらよい。

 嵐や坂道グループ(乃木坂・欅坂)も街を普通に歩ているのがバレたらすごいことになりそうだが、イエスの人気はレベルがけた違いだ。だって、死人を蘇らせるんですよ? 治らないはずの病気を奇跡で治すんですよ?

 


 イエスが実はこの近くに来ている!

 その情報が、「中風」という病を抱える人の住むところに流れて来た。

 当時はテレビもラジオも、ネットもない。

 知りたくても、イエスのリアルタイムな居所などつかみにくい。

 これが、どれだけ千載一遇のチャンスだったか、分かるだろう。



 ここで注目したいのは、病人本人よりも、その友人たちである。

 本人が行きたいと言っても、運んでやってもいいと思うほどの友人がいるかどうか。彼を運んでやろう、そのくらいの労は負ってやろう、というのは本当の「友達」 である。中風の病人は、どうもそういう人物を複数もっていたらしい。

 本人が「行きたい」というので、それに応えたい友人が結集したのか。

 それとも、中風の彼のことを気遣う友人たちが、イエスが来たという噂を聞きつけて、しぶる(迷惑をかけることを嫌がる)彼を説得して、担ぎ出したのか——

 聖書にはその辺の描写はないが、どちらにせよ中風の病人には、他人に手伝いたいと思わせる人徳があったのだろう。とにもかくにも、ひとりと四人はイエスのもとへと出発した。



 しかし! しかぁ~し!

 イエスのいた建物は、東京ドームでも甲子園球場でも日本武道館でも幕張メッセでもなかった!

 狭い、ごく普通の民家の中だったのだ。

 そこに、大群衆が詰めかけたものだから、イエスの頭すら後ろからは見えない。

 これでは、イエスに接近しようがない。

 この人を治してやってください! 彼は私のかけがえのない友人なのです!

 そう直接言葉をかけることすら、ままならなかった。

 普通、この状況を見て取ったら、あきらめて帰る。

 自分ひとりが突撃していけばいい、というものではない。

 中風の病人を担架に担いだ状態で、進まなければならないのだ。

 わやくちゃにされて、病人が担架から落ちる危険性もある。

 常識的に考えたら、イエスの前までたどり着く手段は皆無。

 


 そう。常識的に考えれば……成す術がないのであるが。

 非常識な方法だったら、あった。

 何とかしたい気持ちと常識を天秤にかけて、常識が勝つことがこの世界では多い。

 でもこの場合、中風の友人を何とか治してあげたい! という4人の気持ちが、常識を超えさせた。

 この4人こそ、まさに『ファンタスティック・フォー』と呼ぶにふさわしい。



 どんな非常識な手段を思いついたか、というと——



●よそ様の家の屋根をひっぺがして、そこから病人を降ろそうとした。



 これって、今の日本で現実にやったら、どんな罪に問われるのだろう?

 家宅侵入罪? 器物破損?

 この当時、警察機構が今ほどしっかりはしてなかっただろうが、それでも何がしかの罰則規定はあっただろう。

 聖書はそこのとこをサラッとしか書いていないので、どうしてもイエスの優しさと4人と病人の「求める気持ち」ばかりに注意が行く。

 でも、きれいなことばかりここから読み解くのはおかしい。

 なぜなら、彼らのしていることは明らかに「犯罪」であるからだ。

 君のためなら、悪事だって働いてみせる!

 ちょうど、この4人は、そういうぶっとんだ状態だった。

 もっと言えば、善悪とかそういう次元を超越していた。

 この友人を、何としてもイエス様の前に行かせる——。

 それ以外、考えることができなかった。



 そして、今度はイエス。

イエスは、説教中にいきなり頭上の屋根をはがされ(砂埃が結構落ちたに違いない)、自身の説教の流れを中断されたのだ。

 常識的な人なら、こう言わないだろうか。



「こらこら!

 治してほしい病人がいるとはいえ、何て無茶苦茶を!

 早くから頑張って来ている人もいるんだ。ズルはいけないな。

 ちゃんと、順番を待ちなさい。(全員相手できる保証はないが)

 それに何だ、他人様の家の屋根を破損してまで!

(屋根を壊しちゃって、や~ね! 林家木久扇・談)

 目的のためなら、手段を択ばないというのか?

 加えて、思い余って人の話の腰を折るなんて、失礼だとは思わないか?

 それが、力を借りたい人物に対してすることか?」



 でも、イエスの反応は全然違った。

 非常識を責める言葉は、一切出てこなかった。

 ただ、こう言ったのである。



「子よ、あなたの罪は赦される」



 これ、ずいぶんと聖書(キリスト教)に都合のよい言葉に変えられている。

 本当は——



●お前らのその熱い思い、確かに受け取ったぜ!



 ……そう言ったものと思われる。



 善悪という問題を正直に言うと、嫌われる。

 お利口ちゃんのスピリチュアルブログでは、「やりたいことをやりましょう!」 というメッセージに、『ただし、いけないこと以外でね』、という注釈をつける。

 それは、要らない。

 心が突き動かされて結果としてやることに、善悪はない。

 だから、私は悪いこと以外のことだけにしなさいとは言わない。

 何でもよろしい、と言う。

 それは、放任とか勝手にしろ、という無責任ではない。

 信頼から言うのだ。

 でも、その信頼と言うのも、「人は必ず悪から目覚め、善に来る」ということではない。

 善も悪も関係なく、その人は人生で体験することを通して、空(くう)の目的を満足させる(すべての体験、すべての可能性を潰す)ことになる、と。与えられた役を、まっとうしてくれる、と。



 人間の本質が善、というのは間違い。バカ単純すぎる発想である。

 じゃあ悪か? とかそんな単純な二分法ではない。

 本質の次元に、善悪などという次元の低い分類は存在しない。

 人間の本質は、「すべてを味わおうとする情的力」 である。

 だから、皆さんが言う一見「悪いこと」もするのである。

 でも、人はそれを「本当は悪いことをしたくないはず。でもやってしまうのだから、自分の善なる本性に逆らうので、不幸になる」 というもっともに聞こえる分析で片づける。

 私は、そこで「もったいない」という言葉を使う。



 同じやるんなら、全力でやれ。思いっきりやれ。

 気持ちと行動がちぐはぐな状態は、一番創造力(クリエイト力。ゼロポイントから何かを生み出す力)が低い。まぁ、それだって最終的には、ひとつの体験のコレクションだが。

 罪悪感とか持ちながらやるな。

 いいこと、悪いことという常識枠にとらわれるな。



 私は何も、悪い行いを奨励しているのではない。

 ただ、「その思いが出てきて、結局やることになるのだったら、全力で味わえ」 と言っているだけ。積極的にやれとは言っていない。

 悪い悪いと思いながらする方が、悪いと思わずやるよりはるかにマシという概念が人にはある。実は、それは逆なのだ。もちろん、選択によって回避する自由もあるが、それは何も悪いことだから避ける自由がある、という意味ではない。単に「どうしたいか」の問題である。



 マスター・イエスはどうしてもキリスト教のせいで「善の権化」のように思われているが、実際はそのような次元に生きていなかった。だから、ぶっとんだ言動で沢山人を困らせ、まごつかせた。

 最終的には、ついていけない人たちの手によって命を奪われるに至ったが。

 屋根をはがされ、病人を吊り降ろされた時も、イエスは相手の非礼を何とも思わなかった。むしろ、面白がったと思う。



「スゲー!

 人んちの屋根はがしやがったよ!

 こりゃ一本取られたな。この方法はオレも思いつかなかったぜ!

 このアイデアいただきだな……(メモメモ!)」



 家主の損害など考えずに、面白がったと思う。

 イエスの今ここ、で一番大事だったのは「この場で、大群衆がいる中で一番熱い情熱を持った者が引き寄せられ、登場した」ということ。

 4人の 「今ここ」 で一番大事だったのは……

 イエスと、かけがえのない友人を出会わせること。

 そこで、その周辺を取り巻く様々な事情に固執し、善悪を論じるのは、まだまだお子ちゃまな魂である。

(それは悪いことではない。この世界に子どもが存在するのと同じ理屈で、何の問題もない)



 このストーリーで一番重要に扱われているのは——



●パッション(情熱)である。



 それは、もう理屈ではない。

 いや、こいつの真骨頂は、理屈を吹き飛ばすところにある。

 その偉大なエネルギーの前に、くだらない御託は焼き滅ぼされる。

 イエスは、人格者でも宗教家でもなかった。

『情熱家』であった。

 実は、それがこの世界を本当に動かしている元締め的存在である。

 善悪という概念は、それより下位に属する。(善悪に意味や価値がないと言っていると捉えないでほしい。意味はあるが、情熱よりは下位だと言っているだけだ)

 パッションが、4人をして病気の友人を担ぎ乗り込ませた。

 本当に治してあげたい、という思いが、通常は取らない手段をあえて取らせた。

 自分の家のではない屋根をはがす、という違法性、不道徳性を越えさせた。 

(私のホンネを言うと、屋根をはがされた人はケチケチするな! 応援してやれ! と言いたい)

 イエスも、それをとがめだてしなかった。



●強い気持ち。強い愛。(小沢健二の歌ではない)

 それがあればいい。

 それに身をゆだねていれば。その気持ちが命ずるままに動けば——

 きっと、あなたの魂が満足する状況に出会えるだろう。 

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