イエスはなぜ怒った? ~オレを自分より上に置くな。それは謙虚とは違う~
ひとりの重い皮膚病にかかった人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った。
「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり
「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。
すると、重い皮膚病が直ちに去って、その人はきよくなった。
マルコによる福音書 1章40~43節
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
普通に読めば、なんてことはない文章である。
起こっていることは過激だが。
イエスのもとへ、重い皮膚病にかかった人が奇跡で治してもらおうとやってくる。
で、愛のゆえに憐れんだイエスは、願いどおりに治してあげた。
まぁ、メデタシメデタシ。
教訓=イエス様は愛のあるお方やぁ!
今から、当のクリスチャンですらあまり知らないある知識に触れる。
それを、採用するかしないかは、あなた次第。
ただ、このことを知ると、この物語の印象がガラッと変わることは間違いない。
皆さん知っているかどうかは分からないが、聖書には『原本』が存在しない。
今皆さんが目にしている聖書は、「写しの写しのそのまた写し」くらいの内容だ。
伝言ゲームで、少し(あるいは、かなり)歪んで伝わったものを、ありがたく読んでいるのだ。
大昔は、コピー機どころか活版印刷すらなかったから、本を残すのは手書きしかなかった。同じ本をつくるには、書いて写すしか手がなかった。
しかも、現代みたいにたいていの人は文字が読み書きできて当たり前、ということはない。
●字が読み書きできる人の方が、少数派だった。
お金に余裕があり、労働以外の知的遊びにエネルギーを注げる、いいご身分の人だけの特権。
しかも、現代では「読めるなら、同時に書けて当たり前」だろうが——
当時は、「読み」と「書き」は別次元の能力だった。
読める人はある程度いたが、書ける人となると輪をかけて少なくなった。
パン屋や八百屋のようにどこにでもいる、というわけにはいかず、数がいないだけにものすごい量の「製本依頼」がやってくる。彼らは、売れっ子芸能人も真っ青になるくらい忙しかったはずだ。
その人にしか頼めない、という過酷なスケジュールの中で、そりゃ疲れる。
聖書批評学という学問の中では、明らかに人間的ミスから来る「誤字脱字」や「伝える側の誤解」から、原文とは意味が変わってしまった部分があると認めている。
例えば、「汚職事件」が「お食事券」になるようなミスも、結構ある。
今日の、このイエスのお話は、「聖書を書き写した人が確信犯的に原文の意味を隠蔽した」ケースに当たる。原文の表現を、聖書を書き写す人が受け入れられなかった。だから、自分が受け入れられるように改ざんした。
実は、今日の聖書箇所の、「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり」の部分。一番オリジナルに近い最古の文章では——
●イエスは怒りをあらわにして(怒って)、手を伸ばして彼に触り……
となっている。
さぁ、どうですか? 皆さん。違和感あるでしょ?
その違和感の出所を言いましょうか。
先入観である。
イエスは、(クリスチャンにとっては)救世主。神。
間違うことのない存在。完全な愛の体現者。
そんなお方が、「病気を治してくれ」と言われて、怒った……?
そ、そんなことがあってたまるか! イエス様は、優しいお方なんだぞ!
だから、聖書を写本した人は、「善意で」「よかれと思って」書き換えた。
原文そのままを写さず、確信犯的に表現を変えた。
それが、今有り難がって読んでいるイエス物語の実像である。
イエスが、そんなことで怒るはずがない。
ってか、そもそも怒る理由が理解できない。だから「憐れんで」に変えた。
だから、自分たちの理解しやすいように、改ざんされて今日に至っている。
じゃあ、視点を変えてみよう。
原文通りの、『イエスは怒って』だとして読んでみると?
イエスが完全無欠な愛の体現者で、どんな時にも愛情深く、ゆるしの神で……という先入感を捨てて読んでみると?
重い皮膚病の人が、イエスに会って、何て言っている?
「みこころでしたら、きよめていただけるのですが。」
これは、分かりやすく、身もふたもない表現にすると、以下のようになる。
「イエス様、私は重病人です。神の前に、罪人として力なき立場にあります。
あなたは、奇跡を起こされる神のようなお方。
私が治るも治らないも、あなたのお心ひとつ。
あなたが、そのすべてを握っておいでです。
ですから、どうかあなたが『治してあげよう』と思ってくださいませ。
神のごときあなたがその気になってこそ、こんな私にも治る道が開けます——」
つまり、この病人は自分を「自分には治る力がなく(無力で)、イエスというすごい存在に何とかしてもらう以外にどうしようもない価値のない人間」と考えている。
当時としては、まぁ仕方がない発想である。
じゃあ、イエスがキリスト教が言うようなイメージの人物ではなく、言いたいように言いしたいようにする、ある意味アウトロー的な型破りの人物だったら、どう対応するだろう?
スピリチュアル的に言えば、一人一人が宇宙の主人であり、王である。
その人が、神である。
宗教の発想に慣れた人(人は神以下のクズで、神に頼らねば何の価値も力もない)には、大激怒ものの発想だろうが。
イエスが覚者であり、その確信に至っていたら?
彼が伝えたかったメッセージは、神に依り頼むことによって、価値なき罪びとのおまいらがやっとこさゆるされ、救われるのだ、ということじゃなく「おまいらみんな最高や! 自己卑下なんてせんと、ハートの望み通り胸を張って存分に生きなはれ!」だったのだ。
イエスは、どっちにしろ頼まれれば病気を治してやるつもりだったが、相手の頼み方が気に入らなかった。癇に障った。
イエスはすべての人間の命を、誰であれ最高の値打ちだと思っていた。その一人が、いかにも自分に値打ちがない、イエス様の前に出るなど恐れ多すぎる、というネガティブオーラを発散させていたのが気に入らなかった。
「ぬわあああああにいい!?
あなたのお心次第で、治るのですがだとおおお!
オレの教えをさっき聞いてたか!?
オレも神だけどぉ、それはお前もなの!
そりゃ、現象としてはオレが何とかする形にはなるんだけども……
それすらも、あんたが創造してるの!
だから、オレの意思じゃなく「自分の意識」こそが大事で、あんたのどう在りたいかという思いこそが、本当の意味であんたの病気を治すんだ、と発想なさい!
「治りたいんです」だけでいいの! あなた様が(神が)治してくれると思ってくれれば治るんですが、とか余計なこと言わなくていいの。
間違っても、「オレ」が治すということがすべてで、自分の力などはまったくない、なんて考えなさんな。治ることは、あくまでもあんたが選ぶことなんだ。
私じゃなく、お前さんが決めることなんだよ!」
イエスが怒るのだとすれば、それは相手が——
●自分のダメな理由を挙げて、偉大な他人という幻想におんぶにだっこしようとしたから。人生(宇宙)の主人公である、という輝かしい立場にありながら、その立場の価値を理解せず、自分はまったくなにもできないと考えて、泥を塗ろうとしたから
……である。
キリスト教の、イエスをどんな時にも愛と憐みの人、とする角度の見方では出てこないでしょ? イエスが怒った理由。
他人ではない。あなたがすべて。あなたが宇宙。世界。
そういう世界観を伝えたかった。
でも、イエスの発想は先を行き過ぎていたので、皆自分たちの理解したい次元にイエスを引きずり込んだ。
そしてイエスだけが神(神の子)で、彼を通して救われるという最大級の誤解がキリスト教を生み、その誤解はなまじ理解可能なだけに(皆が神というとんでもない理屈よりは受け入れやすかった)、二千年も猛威を振るってきた。
この箇所で私が個人的に違うと思う解釈は、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」の箇所を、「神の御心でしたら、治るんでしょうね」と読むことだ。
ここでは、神とイエスを分離して考えている。治ることが神の御心でないなら、いくら目の前のイエスが頑張ったところで、治らない。
つまり、遠回しに「あんたにオレが治せるのか?」と疑っているのだ。
そこで、プライドを傷つけられてカチンときたイエスが、「なに、オレにできないと言うのか!」と怒って、実際にできることを示した。
……まぁ、この解釈はないわ~。
だから、原文のまま「イエスはプンプン怒りながら、目の前の病人を治した」でいいのだ。
「コイツめ。私がお前を治す、お前より偉い神なんかじゃないんだって! オレが奇跡を使うことより大事なのは、お前さんがどうしたいのか、そしてそうなるように信じることなんだ。分かってんのか?」
そうブツブツ言いながらも、しっかりと病気は治してあげる。
イエスは、目の前の人が「的外れ」な見方をしていることを嘆きながらも、ちゃんとやることはやってあげているという、何とも微笑ましい情景なのだ。
覚者イエスとしてのお人柄がしのばれるエピソードである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます