イエス、安息日に奇跡を使って反感を買う ~結末を尊重できない人たち~

 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。

 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。

 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。



 マルコによる福音書 3章1~6節



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 予備知識のない日本人に理解しがたいのが、「安息日」というユダヤの考え方である。土曜日にあたるが、「一切何もしてはならない日」である。

 息もしないの? とかそういう小学生っぽいツッコミはやめましょう。

 家事を含めて一切何もしない日。労働は一切いけない。

 ものすごく極端な話をすると、「ろうそくに火をともしてもいけない」。

 それが転じて、エレベーターにのるのもNG。なぜなら、ボタンを押すということはその先で電流が通電するから (それが火をつけることを連想させるので)アウトなんですってさ。ちなみに、安息日には機械の操作もやっちゃだめ。



 現代では、そこまで厳格にこれを守る人は減ったが、二千年前当時はすごかったと思う。

 ユダヤ社会の大常識、と言ってもいい。トイレしたら必ず水で流せ、くらいに当たり前のことだった。意義を疑うこと自体、在り得なかった。

 現代では、人の命に係わること(人命救助)くらいは認められるようになったが、大昔はそれすらダメだった。人を治療する行為もアウトだった。

 だから今回のお話は、そういう安息日にでも、イエスは頼まれれば安息日の決まりを破って人を癒すのかどうか、を反対者たちが確認してやろう、という場面である。現行犯で見届けたなら、イエスを悪く言い、それを他者にも認めさせる絶好のチャンスなのだ。

 事実、イエス個人に恨みはなくむしろ好きなくらいでも、「安息日をやぶるからねぇ」という一点において、イエス反対に引き込むのは容易であった。

 それくらい、安息日を守るということは重要だったのだ。


 

 もちろん、イエスだってそれくらいのことは分かっていた。でも、彼の中では安息日だろうが今したいことをしないなんて、そっちの方があり得なかった。

 当時としては進み過ぎた人だったので、本人よりむしろ弟子や賛同者のほうがハラハラしたことだろう。

 イエスは、くだらないことのために目の前の人の病気が治る機会が奪われる、なんてことが起こるのが我慢ならなかった。人の幸せと、出所もよく分からんしきたりを盲目的に守ることとどっちが大事か、サルでも分かろうがよ!?

 しかも、守ったところで効果のほども分からんし。



 聖書には、こう描写されている。


 

●イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら……



 現代に生きる我々は、「土曜日に人助けもダメなんて、アホなこと守るんやな~」 とあきれるかもしれない。そして自分は、現代という時代はマシでよかった、と胸をなでおろすかもしれない。実は、それが一番のワナだ。

 あなたも実は、同じことをしている。

 イエスが怒っているのは、「安息日には何もしてはいけないことを一番にするあまり、求めている人への治療行為を阻むこと」だと捉えるのは、浅い。

 それはあくまでも表面から見た見え方だけのことで、イエスが怒ってることの本質は何か、というと——



●結果よりも過程にこだわることで、他人も自分も不幸にする



 これを一番の問題としているのだ。

 一番分かりやすい例で言うと、「恋」などがそうだ。

 誰かを好きになる、愛するということは、その人を幸せにしてあげたい、幸せになってほしいと思うことイコールでなければウソだ。

 じゃあ、めっちゃ恋する人の胸に痛いことを言うとですね……



●その人を幸せにするのは、「あなた」でないといけませんか?



 たとえば、あなたが好きな人とあなたでない他人が結ばれても、その二人が幸せなら何の問題もないということではありませんか? その人に幸せになってほしい、という目的は達せられているのだから。

 でも、恋する者は——



●その相手を幸せにするのは、他人ではダメなのだ。

 「自分」でないといけないのだ。



 そのように、結果(好きな人が幸せになる)が同じならどうでもいいというわけにはいかず、その過程(ストーリー運び)がこうでないといけない、と制限する行為を、イエスは嘆いているのである。その個人のこだわりのせいで、誰かが巻きこまれ不幸になるのが、腹が立つのだ。

 今回の場合は、「手の萎えた人が治療されれば素敵なこと (結果)」はどう考えてもいいことだが、「それが安息日に行われるのなら、そんな幸せはダメだ(過程)」 というもの。相手を幸せになるのはいいことだが、そのパートナーは自分でないといけない、という理屈と相似形である。



 たとえば、私 (筆者)を嫌いな人がいるとする。

 このブログを読んで、心が軽くなった、あるいは人生が良くなった、という人がいるとする。

 でも、私を認めない人からすると、「筆者の的外れな教えで幸せになっても、そんなものは本当の幸せではない。まやかしだ」 と言うかもしれない。

 その人が救われたのなら、それでいいじゃないか。でも、その原因が私だったりなんかすると、その幸せがダメだというわけだ。つまり、幸せそのものはいいのだがそれをもたらしたヤツが私なら、そんな幸せに価値はないよ、と言いたいのだ。



 どうも人間ゲームを難しくしているものの正体は、このへんにあるらしい。

 もちろん、何でもかんでも結果がすべてでいいとは言えない。

 貧しい人にお金をあげても、そのお金が道を歩いている人を適当に襲って奪ってきたお金なら問題だ。公式として、「結果良ければすべて過程は問わない」は行きすぎ。何事も、限度というものがある。

 しかし、この世界にはもっと 「過程へのこだわりを捨ててもいいケースがあってもいいんじゃないか」 と思う。こだわりすぎて、それが実現できなくて皆苦しんでいる。

 本当に、それはこだわらないといけないことか? それえを立ち止まって考えられることが「叡智」である。

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