実はユダを裏切り者と決めつけなかったイエス ~最後まで信じる大切さ~
そして、一同が食事をしているとき言われた。
「あなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている。」
弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに
「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
イエスは答えて言われた。
「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
イエスを裏切ったユダが答えて言った。
「先生、まさか、わたしではないでしょう。」
イエスは言われた。
「いや、あなただ。」
マタイによる福音書 26章21~25節 (口語訳を一部編集)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
有名な、最後の晩餐の一場面。
12人の直弟子の中に、裏切者がいるという話になった。
この中のひとりが、イエスを権力者に売ろうとしていると。
イスカリオテのユダという人物が犯人なわけだが、イエスはとうに見抜いていた。
だから、「まさか私ではないでしょう?」と聞かれた時に、ズバリ「あなただ」と言い切れた。
今日注目したいのは、イエスの言い回しである。
イエスは、自分を裏切る人物のことをどう表現している?
●わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者
……と言ったのである。
最初から、特定の人物であるユダを指さなかった。
その次に、ユダに「いや、あなただ」と言ってるので、結局ユダだと暴露しちゃってるように読めるかもしれないが、ここはこう考えよう。
わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者=あなた(ユダ)
つまり、裏切者はたった今「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者」なのだ。
だから、今という瞬間においてその行為をしている人物がユダなので、論理的にはユダがその裏切者ということになる。でも、ちょっと考えてみてほしい。今という時間は、変化していく。ユダだって、ずっと鉢に手を入れてるわけがない。つまり——
鉢に手を入れている行為=一時的
鉢に手を入れている者=裏切者
ユダは今、鉢に手を入れているので今限定の意味で「裏切り者」
でも、その瞬間はたちどころに過去となり、ユダは鉢から出を出す。
その瞬間にも裏切者かどうかは、分からない。決めつけて定義できない。
なぜなら、すべてのことは常に変化するから。
今ここの連続の中では、どのような可能性があるか無限だから。
私たちがこの世界でしていることと言ったら、決めつけることばかりだ。
しかも、その決めつけは「永続する」という前提がある。
例えば、何かを「机」と呼べば、その人の意識の中ではこれまでも机であったし、今まさに机であるし、これからも机であり続けるという無意識の前提がある。
いちいち、その机がかつては「木材」にすぎなかった時代を考えるひとはいない。この机だって、二十年三十年も使っていないだろうし、もしかしたら粗大ごみとして将来焼却されて、机としては残っていないだろう、なんて誰も考えないでしょ?
父、母、子ども。家、車、地球。
誰も、それらを考える時、むずかしく考えずに永続的に「それ」であるという幻想で考える。私だって、奥さんや子供や親と会話するときに、いちいち「生まれていない時代があったんだな」「いつか死ぬんだな」なんて面倒くさいこと、考えない。
だから、ユダが「裏切り者」という時、もう「裏切りキャラ」として考えてしまう。いったん役割名がつくと、もうそれでずっと考えてしまう。
だから、何かのイメージが付くということは、怖い。すべての物事は変化するのに、ずっとそのイメージで考えられてしまう、というワナがあるのだ。
このイメージ付け、というものが、ありのままの何かを見ることの障壁となる。
イエスは、ユダの裏切りを察知した。
しかし覚者イエスは、信用できるのは「今ここ」だけだと分かっていた。
確かにユダは、まさに今という瞬間には、裏切る気満々だった。そのまま時間が経てば、結果それが現実となる可能性は濃厚だっただろう。
それは確かだが、だから「ユダは裏切り者」だと、今を飛び越えた先まで決めつけなかった。絶対だ、とは言えないからだ。たとえ少しでも「考え直す可能性」があるならば、絶対に未来を「決めつけてはいけない」。
そこでイエスは慎重な言い回しをした。
わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、裏切ろうとしている、と。
その真意は——
●今この瞬間、裏切ろうとしているのは確かにユダ。
でも、その次の瞬間、また次の瞬間と言う「今ここ」の連続の中では——
裏切者ではなくなっている可能性もある。
イエスは、今という移ろいゆく時間の断片に、とらわれなかった。
今裏切っているからといって、最後まで裏切者であると「継続性」を付与しなかった。「裏切り者」という、時間の幅をもって有効なイメージを付けなかった。
期待したのだ。
ユダがつまらない思いにいつまでもとらわれず、人生の主人公・自分の宇宙の王としての自由に目が開かれることを。
でも、宇宙のシナリオの結果として、イエスの逮捕、そして処刑は実現した。
イエスは、最後の最後まで、ユダを裏切者と決めつけなかっただろう。
もう、どうにもならない状況になっても、だからと言ってイエスは「せっかく信じたのに、やっぱり裏切者だったか!」なんて感想は持たなかっただろう。
信じたけど結果、ユダは裏切ったということで確定した。でも、最後まで信じてあげたその気持ちは、何よりもの「朽ちない宝」として残る。
損得、というしょうもない次元を超越してね。
それに、イエスはこうも言っている。
「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
~しようとしている、と。
裏切る、とは言っていない。裏切ろうとしている、と。
まだ、裏切り者と決まったわけじゃないよ。まだ、分かんないよ。
オラぁ、最後までお前を見捨てないぜ! と。
イエスの側は、最後までユダを信じた。しかし、ユダの側は最後までそのイエスの気持ちに応えられなかった。ここは、そういう美しくも悲しいお話なのだ。
私たちは、モノや現象や人に、やたらレッテルを貼りたがる。
そして無意識に、それは継続性をもつものと自然に思ってしまっている。
人は、いつまでもその人だと思っている。
いったん「こういう人」だと思ったら、これまでもこれからもそうだと思っている。一度イヤな印象を持ったら、継続性の認識に縛られるので、なかなか視点を変えられない。
●あなたも、イエスのように——
今この瞬間がそうであるからといって、決めつけるのをやめてみませんか。
すべての流れが、最善に運ばれることを信じてみませんか。
たとえそれで短期的にやっぱり損した、傷付いたということがあったとしても、もっと広い視点では、実は意味がある。
スピリチュアルな気付きは、得てして「決めつけをやめてみる」時に起こるようですから。
認識する対象に関して「継続性」という属性を解除して見るといいようです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます