常に目を覚ましていなさい ~人生のヒントは必ずどこかで見せられている~

 その日、その時は、だれも知らない。

 天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。

 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。



【マタイによる福音書 24章36~44節】



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 M・ナイト・シャマランという人物を知っていますか?

 彼は映画監督である。『シックス・センス』を撮った監督だ、と言えば映画好きなら誰しも「ああ、あの人」と言えるくらい、まぁ有名な人だ。



 この監督が撮る映画には、ひとつの特徴がある。

 平たく言えば、「大どんでん返し」 が好き。

 視聴者をあっと驚かせることに生きがいを感じているのか、と思えるような作風なのだ。ただ、そういう作品には怖い点がある。



●「ネタによっては好き嫌い(評価)が激しく分かれる」という点である。



 タネ明かし時点で、「なるほど、すごい」と受け入れられる人と、「なんじゃこら。金返せ!」となる人というふうに、反応が激しく分かれる。

「シックス・センス」だけは世界的に大ヒットで受け入れられたが、彼のその他の作品は、非常に評価が分かれる作品ばかりだという、他人ごとのようで申し訳ないが「面白い」監督なのだ。



「シックス・センス」の評価が高すぎるあまり、その後何を作っても「イマイチ」 と言われ続けたシャマラン監督の最新作が、今日紹介する映画「ヴィジット」である。「またやってくれたな、シャマラン監督!」という感じで、これまた評価の分かれる作品になっている。どうひいき目に見ても、大ヒット作とは言えない。



 主人公は、とある姉と弟。

 彼らに父親はおらず、母子家庭である。祖父母(母親にとっては両親)から結婚を反対され、それでも押し切って結婚に踏み切ったのだが、その後うまくいかず離婚してしまう。

 反対を押し切ってまで結婚しておいて結果失敗したことで、母親は祖父母と疎遠に。だから、姉と弟はこれまでおじいちゃんとおばあちゃんに会ったことはなかった。

 そんなある日、祖父母の側から連絡が来た。

 子どもに会いたい、というのである。

 母親は同意し、学校の休みを使って田舎の祖父母の元へ姉弟を旅立たせる。

 しっかりした子どもであった二人は、電車を乗り継いで祖父母の家へ到着。

 初めて会う祖父母は優しくいい人で、姉弟は来てよかった、と思う。

 一週間の滞在予定の前半は、楽しく日々が過ぎる。

 祖父母は、姉弟に滞在中に守る3つのことを約束させる。


①楽しい時間を過ごす

②好きなものは遠慮なく食べる

③夜9時半以降は部屋から出てはいけない



 しかし、次第に姉弟は祖父母の家である「違和感」を感じるようになる。

 そして、姉弟がついに三番目の約束を破った時——

 とんでもない事態を招く。



 一応、この作品は「ホラー」に分類されるようである。

 人によっては、「コメディ」と受け取る人もいるようである。捉えようによっては、怖いというよりも笑える。シャマラン監督自身も、「コメディとして制作するか、ホラーにするか」悩んだということであるから、結果「どっちともとれる」作品に仕上がったようだ。

 オチとして、祖父母の正体はゴニョゴニョ……なんであるが、それは言わないでおこう。



 シックスセンスという映画も、このヴィジットという映画も、あることが共通している。それは、こういう大どんでん返しものの映画では「お約束」となっていることだが——



●必ず、オチが分かるための「ヒント」をさりげなく視聴者にさらす。



 推理小説においても、金田一少年などの推理マンガなどでも、かならず解決のヒントとなる描写が込められる。それを、どれだけ「さりげなく」 見せられるかが、監督や作家の腕の見せ所なわけである。

 で、あとで「ああ、あれはそういうことだったのか」を膝を打たせたら、作者の勝ち。ちゃんとヒントは見せられていた、ということを認めさせ、なおかつそれが視聴者が大して気にも止めていないようなことだったりしたら、もう視聴者はメロメロに降参である。



 今日の記事で言いたいのは、今の話は人生においても同じことが言える、ということ。あなたの人生には、必ずどこかでさりげなく——



●「幸せへの鍵」「運命を分ける重要ポイント」「重大な選択のヒント」

 これらのものが、必ずあなたの目にさらされる。

 それらが与えられないということは、絶対にない。



 シャマラン監督の映画でも、絶対に「オチ」にたどり着くヒントは提示されている。謎解き物は、絶対にそうなっている。解決編が語られる前に、すべてのヒントは出そろっており、視聴者は真相に自力でたどり着くことが可能になっているのが推理物の鉄則。

『読者(視聴者)への挑戦状』 みたいな感じだろうか。さぁ皆さん! ここまでで私はフェアにヒントは散りばめましたよ。あなたには、この謎が分かりますか? と挑んできている。



 あなたの人生にも、あなたに見ようとする意欲と捉える感性があるなら、それをつかめる。 

 これは、あなたをこの世界に誕生させた何か(別視点ではそれはあなた自身でもあるが、そんな議論は今役に立たない)と、実際にキャラとして生きる「あなた」との対戦なのだ。

 向こうは、あなたに問答をしかけてきている。あなたにその人生を体験させて「これ、いかに!?」と挑戦してきている。

 あなたは、自分が経験したこと、そこから学んだこととたどり着いた信念などを用いて、「私の人生とは……だ!」 と答えることだろう。

 さて、その答えが「あなたというゲームを始めた者」を満足させるかどうか、が鍵である。



 人生(世の中)理不尽なように見えるのは、仕方がない。

 でも、ちゃんと起死回生の糸口は、何らかの形で提示されている。

 擬人的に言うと、シャマラン監督 (この世界の仕掛け人)は、ちゃんとフェアにあなたにヒントを与えた上で、挑戦してきている。「この謎が分かるか?(あなたは、あなたの人生の価値が分かるか)」と。

 さぁ、あなたはどんな解答を、人生の終わりに返すことができるだろうか?

 イエス・キリストは聖書の中で「いつも目を覚ましていなさい」と繰り返し言っている。



 その日、その時は、だれも知らない。

 天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。

 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。



【マタイによる福音書 24章36~44節】



 イエスの「目を覚ましていなさい」は、感覚的には分かるが具体的にどうせよというのかが分かりにくいかもしれない。私流に言い換えれば 「今、落ち着いていなさい」だろうか。

 別の言葉では「リラックス」であり、「余裕をもつこと」となる。

 しかしこの次元はやっかいで、言葉でそう言ってしまうとあるイメージが先行する。例えば、ものすごく重大な場面や急がないと死活問題な状況でゆっくりふるまったり、真剣な場面でヘラヘラ笑っていたら、おかしいではないか。私がここでいう「リラックス」と「余裕」は、そういう表面的な意味のことではない。



 常に何かひとつのことのみに囚われず、いくつかの角度から見つめられること。

 そのように一歩下がって俯瞰的に見るためには、「余裕」なしにはできない。

 しかし、その余裕が発動するためには、必ずしも守られた環境や安全で十分な時間がないといけない、ということはない。「余裕を持つ能力」は状況には限定されず、自由である。

 今自分はどういうところにいて、誰に囲まれて、何をしようとしているのか。

 そのことに自覚的であり、その意味もあなたなりに見出せており、今後の変化に対しても腹がくくれている時、本当の意味での「余裕」「リラックス」は生じる。



 あなたの人生にあなたなりの「ああ、そういうこと」と思える瞬間が来ることを祈る。

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