好きなようにあしらっている民衆 ~民衆に振り回されたヨハネとイエス~
言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。
人の子(イエス、つまり私)も、そのように人々から苦しめられることになる。
マタイによる福音書 17章12節
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2千年前のユダヤで、自国の領土すら失ったユダヤ人の間では、自分たちに領土を取り戻させ、再びユダヤを復興させる神からの使い『メシア (救世主)』が来ると言われていた。その考え方は、他民族に苦しめられる彼らの心の支えとなり、また希望ともなった。
その待望論が高まった時、満を持して現れたのがイエス・キリストだった。
キリスト教に興味がない人は知らないことが多いのが、ここで出てくる 「エリヤ」という人物。エリヤとは、旧約聖書の時代に大活躍したユダヤ教の指導者で、「預言者」と呼ばれた。
ノストラダムスの大予言の「予言」ではないことに注意。
ここで預言者とは、「神様からダイレクトに言葉を受けることができ、それを大勢の民に伝える立場」 である。まぁ、チャネリングメッセンジャーに近い。
エリヤは、イエスのように奇跡も起こせたようだ。
旧約聖書の最後の部分(マラキ書)には、、救世主(メシア)が来る前に、エリヤが先に来る、という預言がある。
相撲で言うと、横綱の前に露払いがいるような感じ。
メシアが万全に事を成せるように、先にエリヤが来て道を整える、と。
だから、イエスがメシアだとしたら、もうエリヤに当たる人物は「もうすでに来ているはず」となる。
もちろん、千年も前のその人物本人が来るわけではない。(写真も残せない時代に、過去の人物の本人確認ができるわけがない……) バプテスマのヨハネ、という人物がイエスの人生には絡んでくるが、彼がエリヤである。正確には、「エリヤとしての使命を背負って生まれてきた者」である。
イエスは、弟子たちに聞かれたのだ。
先生がメシアなら、先に来ていると言われるエリヤは誰なのですか? と。
それは、イエスが現れる前から活躍しており人望も厚いヨハネだ、と答える。
今日は、このヨハネがどういう人物で、どうなったのかということは話が長くなるので触れないでおく。ただ、イエスのこの一言が重要である。
「人々は彼を認めず、好きなようにあしらった」
現代で分かりやすい例と言えば、有名人だろう。
政治家しかり。アイドルをはじめとする芸能人しかり。
庶民は彼らの立場に立ったことがないので、単純なあこがれとやっかみしかもてない。あと、彼らが何か過ちを犯した時に、「それ見たことか」的に鬱憤を晴らすくらい。
皆有名人に憧れるが、かなりリスキーで怖い人生になる。
なぜなら、有名になればなるほど、自分で自分の運命を決められないからだ。
自分の運命は、その他大勢のその時の気分や判断にかかっているからだ。
炎上して大変なことになる芸能人、政治家たち。もちろん、本人たちにも責任はある。(むしろ、そちらのほうが重いこともある)
だからといって、正しさはこっちにあるからと言って、今の世の中のように何でもかんでも叩いていいのか。こちらに筋が通っていれば、度が過ぎても「それだけのことをしたんだから」ということで、それも正義になるのか。
正しいからと、一般大衆が 「負の連鎖」 を止めようとしないなら。当然の権利、と間違った者を攻撃し続けるだけなら——
そのうち、それはその人の足元まで、いつかすくうことになる。
聖書を読めば分かるが、ヨハネもまた、その時代と人々に翻弄された。
イエスは、「自分もヨハネと同じ運命を辿る」と予想し、半ば確信していた。
いつの世も、この世界で人として生きるということは、そういう「思い通りにいかないでもだえる」ことなのである。でも、思いが全部叶わないなら皆モチベーション下がるので、たまに分かりやすい「成功者」を作る。で、大勢はその人物を見ることで「頑張ればあのようになるチャンスが誰でもある」と、頑張れる。
でも、ふたを開けて見れば分かることだが、やっぱり結果すべての可能性がうまい比率で起きるようになっているのである。大いなる外力の干渉で、陰陽の帳尻が合うようになっている。
そのように言うと、何をしてもムダなのかい? すべては決まっているのかい? となる。実はそうだ。
でも、この世界で生きるということは、それを認めないことなのだ。
●決まった理(ことわり)に、どこまで逆らうことができるか。
宇宙は、実は 「真理」とか「法則」通りに、人間が間違わず従ってくれることを願っているのではなく、重要なのは「どれだけ逆らい通してくれるか」にある。
ヒトが決まった運命に従うだけなら、もともと完璧な究極存在は、何も創造しなくてよかった。
でも、完璧な者が体験できないものが、ひとつだけある。
それは、「不完全」 である。
もっと言えば、完璧な一つの答え以上に色んな「可能性」があるという道。
完璧、には程遠いが、それでも色んな選択の可能性があり、ドラマが広がる道。
この世界を創った何某は、おとなしく完璧に道理や法則に従う我々を見たいのではなく、「完全な存在ではもっとも最良のひとつの可能性しかどうしてもできないので、そうじゃない道を選べる不完全な者にその夢を託した」。
有名人や権力者は、ある意味では民衆に力ある者と見られる。しかしある視点では、権力者も大きな影響力をもつ有名人も「一般大衆」が怖い。
それは、民衆が「彼らを好き勝手にあしらう力を持っている」 からである。
有名人や権力者が調子に乗っていられるのは、大衆が味方だからである。
彼らに好意的に受け入れられているからである。
ただし、ひとたび民衆と歯車の噛み合わせが悪くなったら、たちどころに捨てられる。まるで、手のひらを返したかのように冷たくなる。
誰もあなたを顧みず、どこであなたが野垂れ死んでも、彼らは死ぬまで気にすることはない。
この世界は、そもそも矛盾を前提とする世界である。
それがあるからこそ、成立する世界である。
どんなに頑張っても、できることとできないことはある世界。
ある程度は、世で起きることは受け止めていかなくちゃいけない。
でも、ひとつだけ我々が気を遣えばマシになることがある。
●自分勝手に他人をあしらっていないか、考え直せ。
やっていたら、それに気付け。
たったそれだけでも、一人でも人生捨てたもんじゃなかった、と言える人を増やせると思う。
使命をもってやってきたヨハネ(エリヤ)を挫折させたのも民衆なら、最後イエスを十字架にかけたのも、権力者というよりは広い意味ではやはり「民意」。
その愚を、またこのミレニアムの時代に犯しては、イエスが残念がる。
「人間は懲りずにまた同じことをして、世界を壊すのか……」
彼をがっかりさせないためにも、自らの感情レベルの「幼さ」に気付くことだ。
人類は、自分たちが賢いと思い過ぎだ。評論家を気取って、世を、そして人を裁き過ぎだ。
その裁きは、絶対に正しいと胸を張れるのか? 皆そこまで考えず、有識者や支持されているご意見番の意見を取り入れて、何だか頭が良くなった気になっている。
今の世の中、右を見ても左を見ても、知ったかぶりばかりになった。
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