大事なパンは犬にやれない ~謙虚に求めることの見本~
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」 とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
マタイによる福音書 15章21~28節
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ここは、イエスが完全な愛の体現者だというイメージ(いつ何時でも完璧)をもったまま読むと、少々違和感を感じるお話になってる。
現代では、東京出身(都会もん)と地方出身(田舎もん)の間に、深刻な差別や立場の上下はない。しかし、二千年前ともなると、それは顕著にあった。
出身地がどこかによって、結構な差別やえこひいきが横行していたのだ。
イエス・キリストならばその辺りの、実に幼稚臭い「差別」など超越しておられるはず、と我々は考えてしまう。だから、カナン(出身の)女とやらがイエスに娘を助けてほしい、と頼まれた時に、無条件の愛をもって即座に「よろしい。助けてあげよう」となるはずだ、と。
しかし、イエスは意外なことを言う。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
これは、「お前に食わせるタンメンはねぇ!」というのと同じで——
あんたは、私のサービスの対象外だよ、っていうやつ。
一見さんお断りの、看板の出ていない京都の高級料亭みたいなもの。お前なんか、お呼びじゃないよ、と。
カナン地方というのは、ユダヤ民族全体の中での位置づけとしてはには 「ちょっと程度の落ちるところ・ド田舎もん」 と下に見られていた。サマリヤ、という場所もそうで、聖書にも時々登場する名前である。
イエスって、意地悪!
まずは、お前イエスラエルのやつじゃないからアウトね! と断るイエス。
しかし、女はあきらめない。よっぽど、娘を治してほしいんだろう。
どうか助けてくれ、と懇願し続ける。
イエスはそこで憐れんで、よっしゃそこまで言うなら……とはならない。
さらに、いけずなとどめの一言。
「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」
たとえば、これをお読みのあなた。
自分を、公衆の面前で「犬」呼ばわりされたらどう思います?
腹立たしいやら、情けないやら。
しかも、それを言っているのはそのへんのオッサンではない。徳の高い指導者で、その言うことには影響力があり皆が信じるあの「イエス」の言葉なのだ。
イエスを、そこまでして差別に駆り立てるものは何か?
それは、最後に明らかになる。
そこまで言われて、個人の尊厳を粉砕されたカナンの女は、どうなった?
「そうざんすか、もう結構! 命がけでお頼みに参りましたのに、あなたがそんな冷たい心の持ち主だったとは残念ですわ! あなたは本当に慈悲深い方とお聞きしてましたが、世間の噂は当てにならないものですわね! ふんっ」
そんな捨てゼリフを残して、激オコプンプンで帰ってもおかしくはない。
でも、女の本気は、本気も本気。ひらけ!ホンキッキだった!
「そうです。私はあなたがおっしゃる通りの犬でございます!」と、なんと自分を犬だと認めたのである。
「犬でも、本当の子どもたちが食べ残した(テーブルから落ちた)パンくずくらいなら、いただけてもいいんじゃないでしょうか?」と、下手に出てあくまでも食い下がるのである。
実は、イエスの狙いはここにあったのだ。
イエスがそもそも冷酷なのではなく、このために「冷酷を演じた」のである。
イエスは、目の前の女から引き出したかったその一言を聞けたらあとは、もう冷酷人間を演じる必要がなくなった。そのあとは女の覚悟のほどを褒めて、望み通り娘を治してやっている。
このシリーズは時々、あるタイプの人たちに批判的に書いている。
色んな主流スピリチュアルや宗教の言い分ややり方、認識論をひっくり返している。でも、そこにはイエスと同じ意図が隠されていることに、お気付きだろうか?
私の狙いは、相手に間違いを認めさせてへこませることにはない。
私の意見に同調させたいのでもない。
その人が、別に意見を変えなくていいのである。
むしろ、筆者にあんなこと言われた! 悔しい! 今に見てろ~というふうに、あなたが「やっぱり自分にはこれだ!」という確信と覚悟を強めるために、私の記事が利用されるのなら、それは素敵なことである。
私は嫌われ者になるが、その人が自分の道を「それでも選び取る」強さを持てるのなら、私は喜んで嫌われよう。
本書は、私の書いていることを真に受けすぎ、イヤな気分になるだけなら利用法としてはもったないなさすぎ。私の言葉を聞いてもなお、自分の信じる宗教やスピリチュアルに対する的確信が揺らがない人は、それだけでもう益になっている。
こんなこと言われたけど、それでも自分はやっぱこっちだと思う、という選択は強さになる。私は、その機会を提供しているのである。
もちろん、たまにであるがカナンの女のように、私がこれだけ口悪くても謙虚にへりくだり、心から求める気持ちで向かってくる方がいたら、さらにうれしいものだ。
えっ、誰だ! そんなのは後付けの説明で、筆者は実は趣味で心から楽しんで批判しているだけじゃ、って言ったのは!? (激オコプンプン)
……あら、私もまだまだ修行がたりませんな。(笑)
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