毒麦のたとえ ~あきらめたらそこで試合終了ですよ~

【毒麦のたとえ】



 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。


 天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

 僕(しもべ)たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

 主人は、『敵の仕業だ』と言った。

 そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。

『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』



【毒麦のたとえの説明】


 

 弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。



 良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。

 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

 彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。  

 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。



 マタイによる福音書 13章24~42節より抜粋



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 今日のお話は、『毒麦のたとえ』。

 まず、最初のイエスのお話の部分(たとえ話本体)は、イエスのメッセージ。

 しかし、弟子たちが聞いてきたので答えた後半部分の「説明」に関しては——

 だいぶ後で、教会(聖書記者)の手により都合よく解釈されたものを付け加えた。

 どうも昔のキリスト教会は、イエスの言ってない言葉を都合よくポンポン付け加えるのがお好きなようである。



●これ(聖書)に付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。



 ヨハネの黙示録 22章18~19節



 それ、書いてるお前らやろ!

 聖書を広めてる側が、ぜんぜん怖がってへんやん。

 まぁそれはさておき、一応教会が意図する解釈は、まさに後半のイエスの言葉通りである。

 要するに、これは神を信じる者たちへの励ましである。

 今の世は、苦しみや悲しみ、争い、善良な者が虐げられ悪人が得をする。

 なぜ? 神がいるのなら、なぜ今すぐに裁きを下されないのだ?

 待て、神を信じる兄弟たちよ。

 何事にも、それにふさわしい『時』というものがある。

 我々には分からないが、全能の神はその時をご存じである。

 いつかは必ず、神のタイミングで正しい裁きがなされる。

 それを信じて、待つのだ——。

 毒麦をすぐに刈らないのは、神が最後の審判の日(人類の終末)まで待っておられるからだ。

 だから、よそのことで心を奪われないように、あなたはあなたの道を行け。

 そのように言っているのである。



 もうちょっと意地悪な言い方にすると、こうである。

 悪を行う、心無い者よ。今に見ておれ。

 神の裁きがないことで図に乗っているが、いつまでもお前たちの時代が続くと思うなよ。神は、世界の終わりの日を待っておられる。

 そしてその日にはこれまでの世界は消え、キリストを受け入れる者でつくる「新世界」に生まれ変わる。その時になって、悔しがっても遅いぞ。



 何とも手厳しい話だが、このお話の中に優しさを探すとしたなら——

『毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』という箇所。間違って良い麦まで抜くかもしれない、ということは——



●今は毒麦に見えるかもしれないが、いずれ良い麦になる可能性も考慮している。



 つまり、神は待ってくれているということである。

 キリスト教では、神はあなたが変わることを信じて、忍耐して待っておられる、というメッセージになる。でも、最終的には審判するんだから、いくら待つって言ったってどこかの時点で毒麦のままだっだら焼き払うわけでしょ? それって、キリスト教お得意の『無条件の愛』じゃないよね。



 さて、ここからは筆者おすすめの解釈。

 まず、後半のイエス自身(を装っている)の、教会に都合の良い解釈はもう忘れましょう。今日の聖書の言葉の意味するところは、ものすごくシンプル。

 終わりの日が来るぞ~とか、神を信じず悪さばかりしていたらえらいことになるぞ~どうなっても知らないぞ~なんて、小さい子どもをしつける親でも言う。

 ここはそんな稚拙な、おどし説教ではない。



 今まさに、あなたに起こっていること。

 あなたが今、感じていること。直面していること。

 それに関して、あなたなりの解釈や意味付けがあるだろう。

 苦しい、悲しい。最悪だ、理不尽だ。

 今認識し得るデータだけで、精一杯解釈してしまっているだろう。 

 でも——



●映画は、最後まで見なさい!



 よく、映画のレビューサイトで、映画を見てもないのに批評する人がいる。

 採点システムで最低評価を付けて、ボロカス言う。

 例えば、嫌いな映画監督の作品、嫌いな俳優の主演する作品に対して、まだ公開されてない(試写会すらまだな時点から)この作品はきっと失敗だとか、つまらなさそうとか評価しちゃう人がいる。それはもちろん、真面目に批評したいという健全な精神ではなく、「その作品の評判を貶めたい」という意図からのものである。

 それに対し、たしなめる投稿もよく見られる。映画は、ちゃんと全部見てから批評しようね、って。でないと、ちゃんとした評価なんてできないでしょ?って。

 もちろん、本当にその通りである。

 でも、私たち人間は、人生においてそれができているだろうか?

 


●人生という映画を、最後まで見ない先から、評価してしまっている。



 オレの人生最悪だぁ~なんて言う資格は、本来その人にない。

 鼻から息をしていて、この世ゲームに参戦しているうちは、評価不可。

 とにかく、寿命で死ぬか、不可抗力で外部要因によって命を奪われてしまうかするまで、評価なんてできない。人生の最後まで見てこそ、神に文句が言えるのである。



「あのねぇ。神様——

 最後まで映画(人生)見てみましたけどぉ。

 こりゃあ、ちょっとないんじゃないですかぁ~!?」



 死んだ時のことは、死んだ時にしか分からない。

 その時には、今とまた視点も違うだろうし、人生を振り返っての評価も全然違う感想である可能性大。

 だから、良い麦と毒麦のたとえは、こう考えよう。

 良い麦も毒麦も、とりあえずそのままにしておく。

 そして最後の最後、それらの意味が明らかになる。

 まるでパズルのピースがはまり、絵が明らかになるように。

 だから、今の時点であなたが理解不能なこと、最善と思えないことに関して——

 それは、無理に決めつけず、放っておけ。

 時が満ちれば、必ず「絵全体」が見えてくるようになる。



 今日の聖書箇所は、決してキリスト教を信じないと地獄に行きますよ~ということではない。悪いやつらは今はのさばらせておくが、いつか神様が黙ってないぞ~という脅しでもない。

 黙っていないのは、花咲舞くらいでいい。(古っ!)

 そしてキリスト教徒には悪いが、「終末」 は来ない。

「週末」 なら結構来るけど。

 乱暴に今日の聖句の主旨を一言で言うと——



●よ~分からんことは相手せんとほっとけ!



 そういうことである。

 逆説的だが、放っておくことこそ最良の解決になる場合もある。

 燻製のお肉やワインではないが、寝かせて、熟成させるからこそ良くなる、ということがあるのである。

 あなたの目に、良い麦とか毒麦とか今の時点でも思考で色々判断できてしまうだろうが、よっぽど我慢できないということでもないなら、スルーしときなさい。で、もっと時間を割くに値することに意識を向けなさい。



 それでは、今日も毒麦はそのまま放っておきましょうか。

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